カテゴリー別アーカイブ: ミャンマー視察記

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(2)

2月23日(木)

朝、Kさんと一緒にカフェへ朝食を取りに。Kさんの旅行話と私の仕事の話で盛り上がる。Kさんにミャンマー人女性の何人か見せると、2月13日に会ったSさんの写真で思わず彼の目が留まる。「優しそうな子だね」うん、やはり彼女は可愛いだろう。後で聞いたのだが、彼女は5人姉妹の末っ子で、姉妹全員独身なのだそうだ。これは国家的損失ではないだろうか? Kさんは「ミャンマー人女性の未婚率が高すぎる」の内容にも大変感銘を受けていた。マンダレーに行く目的は二人の女性に会うためだったが、一人は直前にヤンゴンにいることが判明。もう一人は途中で連絡が途切れ、悶々とした気持ちを抱えたまま、アング・ミンガラー・バスターミナルへ向かう。ダウンタウンからタクシーで2時間もかかった。バスターミナルは各地へ向かうバスで大賑わい。腹が空いていたが、下痢になるといけないので、ポカリスエットで我慢。が、やって来たバスは、ン十年前のそれと違ってドイツ製らしいデラックスバスで、車内は肌寒いくらいにエアコンが効いていた。高速も日本のそれとさして変わらず、車の走りはスムーズで快適。途中一度サービスエリアに寄っただけで、まっすぐマンダレーに向かい、朝の6時頃にマンダレーのバスターミナルに着いた。マンダレーの宿は地球の歩き方にも乗っているRoyal Guest House。実習生として日本に渡る予定だという日本語が流暢な青年が迎えてくれた。工場で働いて、毎月7万円くらい実家に仕送りするつもりなのだという。ホテルの部屋は清潔で、中にトイレもホットシャワーもあって、朝食もついていて、これで14ドルとはお得だ。後でミャンマー人の友達に教えたら、みんな驚いていた。床に就いて爆睡。

このSさんは35歳を超えてしまいましたが、いまだに独身。金持ちの家の女性は独身ばかりです。

2月24日(金)

昼頃起き出してホテルの近くを散歩。マンダレーは日本の京都にあたる古都で、旧王宮とマンダレーヒルを中心に市街地が広がっている。バイクの数が多く、歩いていると、バイタクの運転手にうざいくらいに声をかけられるのは、ベトナムに似ている……が、車の流れは比較的スムーズ。人口90万人に相応しい賑わいを見せている。日曜日に会う予定の女友達との待ち合わせ場所を確認するために、王宮の周囲をウロウロ。この女性、将来弁護士になる予定のどこぞの大学の法学部生なのだが、なかなか辛辣で骨のある人物……が、直前になって私に会うのを躊躇い、ぐだぐだ言ってきたのをなんとか宥めすかして、アポを取りつけたのだ。Messengerで彼女と連絡を取りながら確認していたのだが、案の定間違えていて、事前に確認してよかった。夕食を食べた後、ホテルに帰って寝る。

2月25日(土)

昼の12時頃、一年くらい前からMessengerでやりとりしてすっかり仲良くなったKさんとその女友達がホテルにやって来る。Kさんは大変熱心に日本語を勉強している30歳の女性で、将来は日本語教師を目指しているのだそうだ(既にBasic classの生徒は教えている)。この日はマンダレーヒルと周辺のパゴダを案内してもらった。マンダレーヒルはひたすら階段を上っていく……が、途中、彼女と一緒に写真を撮ろうとすると、彼女は「私は自分の写真を撮るのが嫌いですから」と言って頑なに拒否。彼女はどうやら自分の容姿に根深いコンプレックスを抱いているようなのだ。Facebookのアカウントにも自分の写真を載せていない。たしかに彼女の容姿は十人並みより少し低いくらいだが、この容姿でそんなことを言っていては、世の3分の1くらいの女性は自殺しなければならないだろう。現に彼女が一時期勤めていた日本企業の日本人社長は「自分の知りあいにそっくりだ」と言って、彼女のことを大変可愛がっていたそうだ。彼女が連れてきた女友達は農家の親戚の女の子で、農家の仕事が嫌でマンダレーに出てきたそうだ。最近、観光客が増えたおかげで、ロンジーなどのミャンマーの伝統服を作る仕事が増えていて、その仕事に就きたいのだという。やれやれ、農家の仕事が嫌なのだミャンマーも一緒か。月曜日にまた会う約束をして一旦別れる。

2月26日(日)

昼の1時頃、Facebookで出会ったHさんとの待ち合わせ場所である王宮の東門へ。Hさんは女友達のMさんを連れてきていた。二人は同じ日本語学校に通っていて、日本語のツアーガイドを目指している。二人とも日本語が達者だが、特にHさんは若干23歳なのにかなり上手。ミャンマーでも人気の韓流ドラマの影響を受けて、小説を書くのを趣味としており、自分のFacebookページを持っている(ミャンマー語で書いているので私はまったく読めません)。Mさんはマンダレー外国語大学の日本語学科で日本語を学んだのだが、しばらく日本語から離れていて学び直している最中だそうである。36歳、独身。NNS先生によく似た顔で、先生の写真を見せると、「似てますね。ミャンマー人によくある顔なんです』と恥ずかしそうに答えた。三人で王宮と周辺のパゴダを回った後、カフェに入る。私はカプチーノ、二人はアイスクリーム。そして私はみんなで食べるためにストロベリーパイを頼んだ。総額18000kyat、日本円にして1500円くらいで大変お得だが、このレベルのミャンマー人の給料が2~3万円くらいであることを考えると、恐ろしく高いと思う。

二人と別れた後、もう一人の例の法学部生と王宮の南門前で落ち合う。女友達二人と来ていた。自己申告どおり、かなり気難しい性格で、私とプレゼントの交換に応じたものの、頑としてデート(と言っても友達を交えての集団デート)に応じようとしない。40分くらいやりあっていたが、結局、埒が明かず、自分よりも20歳も年下の女性を困らせるのもなんだったので、辞去することにした。が、ホテルへ向かう道すがら、突然、後ろから声をかけられ、振り返ると、バイクを運転する彼女がいた。そして私にヘルメットを渡すと、後ろに乗れという仕草。結局、彼女のバイクに乗ってホテルへ帰った。まるで香港映画のワンシーン……と若い頃ならそんな感慨にふけっただろうが、40歳を超えるとバイクの二人乗りは若干怖かった。ホテルに戻ってしばらく休んだ後、彼女からMessengerにメッセージが入って、今日は本当にすまなかった、お詫びにロンジーを贈る、あなたが今日着ていたロンジーは本当にひどいものだから、と言ってきた。ホテルに持ってくるが、私と会いたくないので、フロントに置いてくるのだという。やれやれ。ちなみにこの日彼女がくれたプレゼントは額縁に入ったこんな絵だった。

法学部生の彼女はその後弁護士資格を取って今はNGOで働いています……それなのに実習生として日本に来ることを考えているという。

2月27日(月)

連日の観光で疲労困憊して、昼過ぎまで爆睡。夕方5時、Kさんが友達二人を引き連れてバイクでやって来る。また二人乗りかと暗い気持ちになるが、もちろん、表情には出さない。四人でパゴダを二つ回った後、Kさんの家へ行く。バイクをかなり飛ばし、怖かった。彼女の家は都心から離れた所謂住宅街の一角にあったが、家の前の道をビュンビュンバイクが行きかっていて、かなり騒々しかった。家に着いてご家族に挨拶。Kさんのお姉さん(写真左)は物凄く背が高くて、髪が長くて、綺麗で、思わず見惚れてしまった。33歳で公務員で独身。一生独身のままでいいと言っているのだという。ミャンマーは頭が良くて真面目で綺麗な女性に限って、こんな人ばかりで本当に困る。家ではお姉さんが作った夕食を御馳走になる。写真を見れば分かるとおり、美味しそうで、実際、美味しかった(が、やはり油が多すぎたのか、胃に持病のある私は翌朝胃痛に悩まされた)。夕食を食べた後、しばらくKさんと雑談。キャリアに迷っている様子だったが、私は他の人にも言っているように、N3を取ってミャンマー国内の日本企業に就職するのが一番と言っておいた。ただマンダレーには日本企業があまりないのが悩みの種。就職のためにヤンゴンにでることには父親が反対しているのだという。まったくこの国は父親が子供のやることになんでも口を出して、反対する。そして多くの場合、そこにはなんの合理的理由もない。家族の絆が強く、支えあって生きることはいいことだと思うが、その分、しがらみも強いのだ。その後、Kさんにホテルまで送ってもらって別れた。

年を食ったせいかバイクの二人乗りはもう怖いですね。運動神経が鈍くなっているのがわかるので、こけたら助かる自信がありません。

2月28日(火)

朝11時頃に起きてパッキング……が、ボストンバッグのファスナーが壊れて閉まらない。部屋を出た廊下でカバンを前に右往左往していると、掃除をしていたホテルの女の子たちがわらわら集まってきて、カバンを囲んで直し始めた。その様子を煙草を吹かしながらぼっーと眺めていると、やがて一人の女の子が「OK」と言って、ファスナーを締めてくれた。感謝しきり。この日も会うはずだったKさんが仕事が忙しくて行けないということで、電話でサヨナラの挨拶をする。バスの時間が来るまでホテルのロビーで休憩。仕事はおじゃんになったが、友達が色々してくれたおかげで、マンダレーでは本当にいい思い出ができた。死ぬまでにあと何回こんな思い出ができるだろうか? と感慨にふける。やがて時間が来ると、タクシーに乗ってバスターミナルへ。行きとまったく同じプロセスでヤンゴンに帰る。ヤンゴンに着いたのは翌朝の6時だった。

3月1日(水)

朝11時にビジネスパートナーのSがホテルに迎えに来る。電話しても私が出なかったので、ホテルまでやってきたとのこと。疲労困憊して爆睡していたようだ。二人でわざわざタチレクから呼び寄せた女性に会いにスーレープラザへ行く。女性はボストンバックを引きずって現れた。せっかく田舎からヤンゴンに来たのだから、数日ホテルに滞在させて、あちこち連れていってやろうと思ったのだ。KFCで面談。行ったことがなかろうと思って連れて行ったのだが、女性はチキンフライにはあまり手をつけなかった(笑)。これまでのヤンゴン在住の中産階級の女性とは毛色が違うので、色々尋ねたが、高校を卒業した後、20歳の時に一度結婚して女児をもうけたものの、男性が酒におぼれるようになり、やがて離婚。その後は写真店と造花店を経営しながら、女手一つで子供を育ててきたとのこと。が、家庭の事情により店を締めざるを得なくなり、新しい人生を求めて、この度、私の会社にエントリーしたとのことだった。所謂、貧困層の女性ではない。またミャンマーであまたの芸能人を輩出しているシャン族の女性だけあって、肌の色が白く、胸とお尻が大きくて女性の魅力に溢れていた。ミャンマー語、タイ語、シャン語の三つの言葉を話せるのだという。面談が終わった後、女性を私の泊まっているホテルに連れていく……が、なんと私のホテルはミャンマー人不可。仕方がないので、隣のホテルに連れていったが、料金は25ドルと私のホテルの二倍以上もして、少し凹んだ。夕ご飯を一緒に食べる約束をして、一旦、女性と別れる。夕方6時半、Akikoに会いにJunction Centerへ。色々あったが、結局、私の会社に登録することにしたのだという。面談はつつがなく終了。その後、ホテルに取って返して、シャンガールと夕食を食べに川沿いの屋台街へ。シャンガールはタイ料理を食べたがっていたが、そんなものあるはずもなく、結局、二人でチャーハンを食べた。食後、彼女をホテルに送って就寝。

彼女が元MY009さんです。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(4)

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第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(2)

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https://myanmar-one.com/myanmartrip31-2/

2月16日(木)

朝11時にスーレーに行って、ビジネスパートナーの男性と会う。Messengerで話していたときの胡散臭い感じはあまりなく、精悍な感じの男性だった。将来、本格的なコーヒー店を開きたいと言っていたので、お土産のコーヒードリップを渡すと、嬉しそうに「ありがとう」と言った。ミャンマー人にしては珍しくこまめに連絡を寄こす男性で、とても助かる。まあ、金欲しさなんだろうが。 夜7時、タコマのシティマートへ行って、エンジニアの男性と会う。私はミャンマー人向けの会社のFacebookページをコンサルト会社で登録しているのだが、そのせいか、時々、変な依頼が舞い込む。これもその一つで、彼は日本の大学に留学中、ミャンマー人の大学教授に金をだましとられ、彼の法的に裁きたいから力を貸してくれ、と頼んできたのだ。二人して中華料理屋に入って、色々相談。彼は父親も大学教授のインテリ一家だそうだが、ちょっと人が良すぎる感じがした。4月末に日本の警察に訴え出るために来日するそうだが、果たして上手くいくだろうか? それでも「できるかぎりの手助けをする」と言って、別れた。

ミャンマーでは詐欺にあっても警察も裁判所も何もしてくれないので、ほとんど泣き寝入りです。

2月17日(金)

昼間はホテルにこもって、ブログを書くなどして過ごす。夕方6時、ある女性と会うためにJunction Centerへ赴く。この女性、9月頃から時々、Messengerで話をしていて、彼氏がいるのでリクルートしたわけではないのだが、私の仕事に興味があるというので会うことにしたのだ。かつて両親が日本で生活していて、日本で生まれたらしく、そこそこ日本語を話す。ちなみに彼女のFacebookネームのアキコは父親が好きだった歌手の小林明子から。が、約束の時間の前に電話が入って、仕事が忙しいので30分遅れると連絡してきた。が、その30分が経っても姿を見せない。この日は他に約束もなかったので、喫茶店でカプチーノを飲みながら待っていたのだが、一時間経っても姿を現さず、電話も繋がらない……が、やがて「お金を盗まれた。泣きそう……」というシュートメールが入り、電話がかかってきて、「明日、家賃を払わなければならないんです。分かりますか? や・ち・ん……」と泣きついてきた。その後も色々話をしていたのだが、雑音がひどくて聞き取れず、やがて電話が切れた。さすがに疲れたのでホテルに帰る。彼女はその後待ち合わせ場所に現れたらしいが、どうも話がおかしい。私から家賃に当たる金を借りて、せしめようと考えたのではないかという疑念が脳裏をよぎったが、金が欲しければ私と一緒に仕事をすればいいのに……と悶々と考えているうちに、疲れ果てて寝ていた。

結局、彼女は金欲しさに私に会っただけでした。やり口が単純なのですぐにばれる。今は怪しい健康食品を売り歩いています。おつかれさまです。

2月18日(土)

朝11時にスーレーパヤーへ。今度の女性はお姉さんと一緒に来ていた。英語堪能で利発そうで、お腹が大きかった。これに対して妹のほうは優しく大人しそうな女性で、面談もほとんどお姉さん任せだった。

午後3時、もう一人の女性と会う。31歳で、Messengerで、「私は誰とも結婚する気がない」というのを口説きまくってなんとか面談にこぎつけた。髪も胴も手足も長く、思慮深そうで、笑顔が綺麗な典型的なミャンマー美人である。「12年前のミャンマーで見たのはこれだよ」とほくそ笑みながらいざ面談に臨むが、彼女はいますぐ登録したくない、考えさせてくれ、と言ってきた。何度も繰り返しているが、ミャンマー人女性は未婚率が高く、データはないのだが、彼女のような高学歴の女性ほど未婚率が高いのは想像に難くない。が、かといって、彼女たちが「日本人と結婚できるなら」とほいほいついてくるわけでは全然なく、寧ろ逆。経済的に自立しているので独身でもなんら生活に困らず(ミャンマーは男性が働かないor給料が低いので、共働きが当たり前の社会であり、女性も男性と同じくらい、もしくはそれ以上にキャリア志向である)、男性があまりにも頼りないので強烈な男性不信に陥っていて一生結婚しないと決めつけており、marriage agencyを通じて結婚相手を探すことにも抵抗があうことから、このレベルの女性を確保するのは、かなり難しいのだ。恐らく短期的にはこの状況は変わらないだろう。ということで、再会を約束して一旦別れる。別れ際、彼女はお土産のペンダントをくれた。失望が深く、どっと疲れが出る。

彼女は今は日本にいます。いまだに独身です。さすがにリクルートはあきらめた。

2月19日(日)

朝11時、ダマレキタ僧院へ。先週道端で会ったFacebook友達の女の子がカレーを持って現れることになっていたのだが、来ておらず、メッセージを送ると、会社の行事で来れなくなったということだった。授業が始まる前、例の破戒僧からこんな話を聞いた。先日、とある日本人が僧院に見学に来て、一瞥、「なんでこの僧院は女の子ばかりなんですか?」と尋ねたのだという。破戒僧が「なんでなんだ?」と私に尋ねてきたが、正直に答えるわけにもいかず、ある女の子に話を振ると、その子は少しはにかみながら、「男の子はLazyだからです……」と答えた。破戒僧はショックを受けたようで、「OMG」と叫んで飛んでいった(微苦笑)。

授業も半ば過ぎた頃、N先生が現れる。すっかりお腹が大きくなっていた。先生を囲んでN4に合格してN3の勉強を始めたばかりの生徒4人と一緒にしばし談笑。なんでもここに通ってくれている駐在員の奥様二人が、12月のJLPT直前に模試のようなことまでしてくれて、おかげで僧院始まって以来の大量合格者を生み出したのだという。私は日本に行きたがっている彼らに、留学生や実習生で日本に来ても、周囲は外国人ばかりだし、アルバイトや仕事に追われてあまり遊べず、日本語も思ったほど上手にならないとアドバイスしておいた。現状ではN3を取ってミャンマーに大量進出している日本企業に就職したほうが、彼らのためだろうと私は思うのだが、どうだろう? 事業に関しては、N先生から「誰も信用しちゃいけない」というアドバイスをいただいた。

授業の途中で辞去して、先週会う約束していたHさんの弟がやって来て、彼のタクシーで女性の元に向かう……はずだったのだが、どうも様子が可笑しい。タクシーを止めてViperでHさんに電話をして事情を聞くと、なんと彼が女性を紹介してくれるのではなくて、彼が日本人女性と結婚したいということだった。なんてことだ。結局、スーレーまで送ってもらって、二人してカフェでケーキとカプチーノを頂く。彼はとても日本にいきたがっているようだが、日本語も英語もまったく理解しないこの状況では難しいだろう。ナイスガイではあるのだが。物凄い徒労感を抱えてホテルに帰る。

2月20日(月)

12時頃、とある人の紹介で会っておけと言われた男性がホテルまで迎えにくる。とても穏やかそうないい人だったが、日本語も英語もあまり話せないので、型通りの話に終始した。夜7時、金曜日に会いそびれたAkikoさんと会う。1~5歳まで名古屋にいたというだけあって、特に日本語を学習したわけでもないのに、そこそこ日本語を話す。4月に名古屋の日本語学校に2年間留学するそうだが、なんとなく、心の底を見せないような、そんな感じがした。「誰にお金を誰に盗まれたの?」と聞いても、「お父さんです」「冗談です」と言うだけで、釈然としない。が、marriage agencyには興味あるらしく、資料をひととおりもらって、「お姉さんや友達に話す」と言った。うーん、でもやっぱり怪しいな(微苦笑)。

2月21日(火)

溜まった疲れがどっと出て、午前中は爆睡。午後はブログを書いたり、メールを書いたり。夕方になって、2月11日に会員になってくれたBさんとサクラタワーの前で待ち合わせをして、夕食を食べに行く。Bさんは私のことを気に入っているらしく、ちょくちょく電話やメッセージをくれる。この日はヤンゴン川沿いに場所を移した屋台街で、二人でBBQを食べ、ビールを飲んだ。彼女の母親は娘が酒を飲んでいるのを知っているらしく、あまりいい顔をしないのだという。彼女は私の仕事にいたく肯定的で、「早く私の結婚相手を探してください」と急かしてきた。日本語を上手くなりたいから、自分に日本語を教えてくれる人がいいのだという。そんなにハードルが低くていいのか? とも思うが、外国人に日本語を教えるのは結構骨が折れるので、そうでもないかもと思い直す。食事をした帰り、路上の果物売りからドラゴンフルーツを買って、ホテルで食す。初めて食べたが、なんとも微妙な味。もう買うことはないかも、ね。

2月22日(水)

ホテルのカウンターで明日のマンダレー行きのバスのチケットを購入。十ン年前のおんぼろバスを思い出して、あれにもう一回乗るのは勘弁だと思って、飛行機で行こうと思っていたのだが、クレジットカードの手続きが間に合わず、断念したのだ。昼頃、ホテルのロビーに顔を出すと、見覚えのある顔が……と思ったら昨年ここで会った善通寺市に住む年金パッカーのKさんだった。なんでも今回は泰緬鉄道の足跡を辿る旅をしていてヤンゴンに辿り着いたそうで、奇跡的な邂逅に二人して感激。話が弾んだ。夕方5時、ミンガラドンのMさんの家へ。この夜はBBQをしながら、Mさんの友達の旅行代理店経営者と話をするはずだったのだが、肝心のその人物が用事で来れず、単なるBBQになった。姪っ子とはMessengerでよく話をするのだが、直接会うと、あまり話をしてくれず、ずっとFacebookばかりしている。勉強もあまりしないようで、遊ぶことばかり考えているのだという。宴もたけなわになると、みんなミャンマー語で話し始めたので、私はMさんと二人、日本語で話をしていた。私はミャンマーと合わない」とMさん。そりゃ女だてらに酒も煙草も嗜んでいるようじゃ、合わないだろうね。11時頃、ホテルに帰って寝る。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

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第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(1)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(4)

2月9日(木)

成田からヤンゴンへ。機内でワインを飲んで熟睡していたので、あっという間に着いた感。ヤンゴン空港では、今回、とある事情で日本にお連れすることになったMさん(50代の女性。かつて日本人男性と結婚していたことがあり、日本語ペラペラ)とその姪と女友達が迎えてくれた。姪御さんとはMessengerで何回か話したことがあるが、モデルのように可愛いらしく、彼女のFacebookアカウントには鼻の下を伸ばした1000人以上のフォロワーがいる。ホテルに行く前にMさんのご自宅に寄って、焼きそばと八宝菜とチキンの夕食を御馳走になる。ありがたいのだが、量も油も多すぎる(苦笑)。ミャンマーは料理を残してもいい食文化なのだが、これにもいつまで経っても慣れない。

Mさんの家は旧居と新居の両方あるのだが、85歳になる元医者のMさんの父親が頑として旧居から離れようとしないので、新居は空き家のままで、こうして友達が来た時にたまに使うだけなのだとか。水回りもよく、エアコン付きで、趣味の音楽に興じるためにギター、ベース、ドラムセットが備わり、防音壁を施したスタジオまであるのに、もったいないことよ……が、やることが、なんとなく日本の田舎の人に似ている。また彼女の家には、長机を備えた小屋みたいなのだがあって、これはなんだ? と尋ねると、NLD(アウンサンスーチーの政党)の支部なのだとか。彼女はNLDの活動家で政権を取るまでは熱心に政治活動をしていたそうだ。 「これからはデモクラシーの時代だからね!」とMさんは満面の笑み。

食事を終えた後、近所の姪っ子の家へ。お母さんが自宅で英語の塾を開いていて、7~8歳のあどけない子供たちが勉強していた。ミャンマーの教育だから、ひたすら暗唱、暗唱、暗唱の連続である。二階の部屋にある仏壇みたいなものを見せてもらったが、その中に鎌倉大仏があった。本当にミャンマーでの鎌倉大仏の人気は絶大である。娯楽の少ないミャンマーでは、こうして自分の家に客を招待して、食事を振る舞い、話をするのが重要な交遊らしい。 その後、ホテルへ。常宿のHホテルは顔なじみのマネージャーの姿もなく、閑散としていた。メッセンジャーに入っていた沢山のメッセージに返事を書く。Mさんの姪御さんとはかなり長く話した……が、もはや20歳の女の子と話しても話題が続かず、疲れるだけ(微苦笑)。この日はそれだけで就寝。

この姪御さんは本当に可愛いのですが、なぜかいまいちな男とばかり付き合って周囲をやきもきさせています。何度も言っているようにミャンマー人男性は「ヒモ体質の浮気性」が多く、恋愛や結婚の対象となる男性が少ないため、女性が男性の欠点に目をつぶる傾向が強いのです。

2月10日(金)

朝起きて朝食を取りにホテルの7階か8階にある食堂へ……が、そこにはテーブルと椅子が並べてあるだけで、何もない。厨房のドンである英語を理解しないラスボスのように太ったおばさんに身振り手振りで尋ねると、「ない」という返事。このホテルはビッフェ式の朝食でつとに有名であったのになぜ止めてしまったのだろう? シーズンオフなので客が少ないのは仕方がないが、相変わらずマネージャーやサブマネージャーの姿もなく、閑散としている。床が綺麗になって、Wifiの性能が向上していたが、なんとなく寂れた感じがする。

その辺のコンビニでパンと豆乳の簡単な朝食を取った後、名刺を作り直しにCity Hallの近くにある印刷所へ。相変わらずあの厳しそーなお姉さんが、会社を切り盛りしており、テキパキと仕事をこなしてくれた。私のことを覚えていたようで、去り際に「さよなら」と日本語で挨拶してくれた。その後、コンピュータースクールの隣にあるパソコン店へ行き、携帯にトップアップカード(プリペイドカード)をチャージしてもらう……が、なぜか電話が繋がらない。MPTのオフィスに行ってみると、どうやら半年以上使っていなかったSIMカードが使えなくなったらしく、再度使えるようになるまでに一週間かかるのだという。仕方なく新しいSIMカードを購入し、インターネットも使えるようにした。ホテルに帰った後、電話番号が変わったことをMessengerで知人・友人に連絡。

ホテルで一休みした後、女性との待ち合わせ場所であるスーレー・パヤーへ……が、待ち合わせの時間になっても彼女は現れず、日本で通訳役で待機している彼女の叔母にMessengerで連絡すると、なんでも私に会うのが恥ずかしくなって、面接を止めにしてしまったのだという。書類に必要事項を書くから送ってくれと言っているらしいのだが、会ったこともない女性を他人に紹介するわけにはいかない。が、その叔母のもう一人の姪が来るというので待っていると、その彼女から電話が入って、既にスーレーに来ているとのこと。がしかし、英語も日本語も理解しない彼女と話してもチンプンカンプンで、なかなか顔を合わせることができない。後で気づいたのだが、このスーレー・パヤーは待ち合わせの場所としては、かなり不向きな場所だった。結局、スーレーをぐるぐる回っているうちに、なんとか彼女と邂逅。お腹が空いているというので、二人してKFCに行ったが、彼女がオーダーしたセットが四人分で往生。事前に写真も見てなかったので、まったくの初対面だったが、彼女は小柄で骨太で芯のしっかりした感じのとても可愛らしかった。「自分が求めていた女性はこれだよと」と、これまでの苦労が報われた感。が、彼女との間ではコミュニケーションがまったく成り立たず、あまりの言葉の通じなさに二人の間に微妙で奇妙な緊張感が走る。結局、ここでもMessengerで叔母を呼び出して、なんとか面談を終了させた。彼女をバス停まで見送った後、ホテルに帰ってMessengerで友人・知人何人かと話して、就寝。

2月11日(土)

朝11時に女性との待ち合わせ場所であるJunction Centerへ。10分ほど遅れて、ドラえもんのTシャツに短パンというラフな格好をした彼女が現れる。ミャンマーというか極めて平均的なASEAN女性という感じの人で、脚が白くて長く、とても明るい女性だった。建物の4階にあるカフェに入り、電子辞書の力を借りながら面談。高卒だったが、趣味は語学というだけあってかなり英語が流暢で、仕送りは必要か? という質問に「自分の稼いだ金を送りたい」と答えたのが印象的だった。が、最後に写真を一枚撮らせてくれと頼むと、ドラえもんのTシャツ姿は嫌だと言われ、断られた(微苦笑)。後で送ってくれるのだという。

ホテルに帰って、フロントにいる男の子たちにマネージャーはどこにいるのか? と尋ねると、なんと彼は半年前に引退して、現在はヤンゴンのどこかで余生を送っているのだという。そしてサブマネージャー(彼は中国人だそうだ)は現在はロサンゼルスにいるのだとか。半年以上留守にしている間に、長らくバックパッカーに愛されてきたこのホテルの歴史が終わっていた。そうなると、日本語どころかまともに英語を話せるスタッフもおらず、名物だったビッフェ式朝食もなく、なぜか水回りが悪くなり、なによりもマネージャーの醸し出すアットホームなホスピタリティもないこのホテルの将来はジリ貧ではないか。自分としてもここにいる理由はもうないし、他のホテルを開拓ししようか……という思いが一瞬脳裏をよぎったが、それでもWifiの状態がいいので、やはりここに落ち着くことにした。

ホテルで休憩した後、夕方6時にもう一人の女性との待ち合わせ場所であるスーレーへ。ミャンマーに来る少し前から時々Messengerで話していたのだが、N3取得者で日本語は流暢、某日本企業でプログラマーとして働いているらしい……が、この日会社のメディカルチェックがっあったらしく、2時間近く遅れて、しかもスーレーではなくサクラタワーで落ち合うことになった。現れた彼女は想像していた以上にかなり大柄で、とても可愛らしい人だった。近くのシャンカウソエの店に入って、私だけカウソエを食べながら面談。なんでも父親は医者で、水泳もすれば(ミャンマーでは女性が公衆の面前で肌をさらすのはご法度)、酒も少し嗜む(これもご法度)「開明的」な女性のようだ。それにしてもよく喋る。好きなタイプの男性は? という質問に「忍耐強い人」と答えたのが、印象的だった。カウソエを食べた後、サクラタワーの最上階にあるレストランに入って、彼女はケーキと紅茶、私はビールを飲んで歓談。なぜか今度一緒にプールに行くことになった(笑)。仕事のことを忘れて楽しいひと時だった。いや、忘れてはいけないのだが。

結局、ホワイトハウスホテルはこの年の暮れに閉鎖され、今はオーナーも変わって同じ名前の新しいホテルに生まれ変わっている。きれいになったが、私にはお行儀が良すぎるので他のホテルに移った。でも他人におすすめできるホテルです。

2月12日(日)

朝11時にダマレキタ僧院へ。バスを降りて僧院までの道を歩いている途中、誰かが近づいてきた。ロンジー姿だったからよく分からなかったが、よく見ると、僧院で日本語を勉強していた青年僧だった。「おひさしぶりです」と流暢な日本語で挨拶してきて、どうやら私が留守の間に随分日本語が上達したらしく、淡い感動を覚える(彼は非常に勉強熱心だった)。隣に小柄な可愛い女の子がいて、「Nice to meet you」と挨拶してきた。聞けばMessengerでよく話していたMさんだという。彼女は後で僧院にお土産のシャンヌードルとロンジーを届けてくれた。

僧院に着くと僧院の中で時々煙草を吸っている破戒僧の青年僧に出迎えられる。日本に行きたいらしく、滞在費やら航空券代やらを聞かれたので、正直に教えると、ハッーと深いため息。僧院の中に入ると、僧院長が暖かく迎えてくれ、昼食の焼きそばを御馳走になった。授業の時間が近づくと、続々と見覚えのある生徒たちがやってきて、流暢な日本語で挨拶される。みんな12月のJLPTでN4かN5に合格したということで、大変めでたい……が、中には姿が見えなくなっている子も何人かいて、特に出来が悪いのに頑張っていたあの子とやこの子の顔を思い出すと切ない気持ちになる。別に日本語できなくてもいいから、幸せになっておくれ。

授業の始まりに日本から持ってきたお土産のお菓子を配ったが、結構、あっさりした反応しか返ってこなかった(微苦笑)。ま、寄付とかに慣れているお国柄だから仕方ないか。授業の途中、見知らぬ男性から挨拶される。カタコトの英語で「妹が名古屋に住んでいる」というのだが、いまいちなんのことか分からない。日本語教師のWに通訳してもらうが、それでも意味が分からない……が、授業が終わった後、もう一人の女性の日本語教師に通訳をしてもらって、彼がHさんの弟であることが判明。来週の日曜日またダマレキタで会う約束をする。

その弟にスーレーまで送ってもらって、女性を待つ。彼女は友達のお姉さんである。が、約束の時間に一緒にやってくる予定の女性の妹から電話がかかってきて、既にスーレーに着いているらしいのだが、どこにいるのか分からない。英語も日本語もできない彼女と意思疎通ができず、またスーレーの周囲をぐるぐる回る。埒が明かないので、3ドル払ってスーレーの中に入り、それらしい人物を探したが見つからない。そうしていると、英語を話すミャンマー人青年が話しかけられて、彼に電話で彼女たちを呼び出してもらった。彼女たちを待っている間、青年はお祈りの仕方を色々教えてくれたが、最後にチップを要求され、1000チャット払った。額の少なさに青年も微苦笑。あまりミャンマー人はこういうことをやらないのだが、インド人だろうか? ようやく顔を合わせた二人と近くのカフェへ。姉妹で色違いのお揃いのロンジーを着ていて、とても綺麗だった。妹も来年日本に語学留学するらしいのだが、恐らく親戚に借金をしてとのこととはいえ、(小金を持っているそんな親戚がいるということだから)、姉妹二人も日本に送り出すとは、結構裕福な家なのかもかもしれない。二人とも英語も日本語もできないので、Messengerで日本語ができるミャンマー人の友達を呼び出して通訳してもらう……詳しいことは〈きぎょうひみつ〉なので、ここには書けないが、なかなかヘビーな一時間だった。彼女の写真を撮るのを忘れたので、後で送ってもらうことにする。ヘトヘトになってホテルに帰り就寝。

2月13日(月)

朝11時にスーレーへ。この日は2月10日にキャンセルした女性と会うのだ。叔母の説得でなんとか面談にこぎつけた。既に2月10日の女性から情報を得ていたのか、比較的スムーズに会える。家族総出で来ていた。彼女は先に貰った写真のボーイッシュな印象と違って、とても落ち着いた感じの人だった。親戚の男性が運転する車でシェダゴンパゴダの近くまで行ってカフェに入り、面談。異常にシャイというのは本当らしく、彼女は私とはほとんど目を合わさず、契約書も親戚の男性が代わりに書いた。が、写真を見れば分かるとおり、芯はしっかりした女性である。いい人と契約できた。面談が終わった後、似合わない眼鏡を外させて写真を一枚撮る。

夕方5時にはこちらはプライベートでFacebook友達の女性に会いに中央駅近くのルビーマートへ。途中、東京ダジャン祭りのボランティアで一緒だったH氏とH女史と邂逅。擦れ違った時、キャップと短パン姿の金周りのよさそうな男がいる、恐らくヤンゴンに跋扈している投資詐欺師か何かだろうと思ったのだが、まさかお二人だとは。いや、びっくりした。ルビーマートで顔を合わせた彼女は写真のイメージと違って、とても小柄で、こちらは写真のイメージと同じく、八重歯がとても可愛らしかった。日本人みたいな化粧をしているなあと思っていたのだが、案の定、彼女はミャンマーの派手な化粧が嫌いで、ヤンゴンで日本人が開いている美容学校に年間200万チャットの学費を払って通い、メーキャップを学んだということである。4月から日本の日本語学校に留学して2年間日本語を学んだ後、ファッション関係の専門学校で学び、将来はファッション関係の仕事をしたいのだとか。私はミャンマー人女性の洋服のセンスを直してくださいと彼女に頼んでおいた。

彼女の彼氏は新聞記者なのだが、同僚が殺されているらしい。ミャンマーではジャーナリストも命がけだ。

2月14日(火)

連日の疲労が溜まっていたのか午前中は爆睡。夜の7時にFacebook友達のMBL君に会いにレーダンセンターへ行く。彼はマノーラマ僧院で出会い、現在、癌で闘病中のZ君の友達。本当はネピードーの病院に入院していたZ君のところに行って、お土産のマンガを渡すつもりだったのだが、Z君は既に退院してネピードー近郊の村で療養中ということで、MBL君に託すことにしたのだ。待ち合わせ場所のレーダンセンターに現れたMBL君は、まだ日本語を勉強して1年半だというのにかなり流暢に日本語を話す。ミャンマー人の出来のいい子は、だいたい一年で少し話せるようになり、二年で日常会話に不足しない程度に話せるようになるから、驚きだ。二人して近くのビアホールに入って歓談。MLB君には最近彼女ができたらしく、写真を見せてもらったが、小柄な可愛い子だった。「好きです」と告白したら、キャッ―と悲鳴を上げて逃げ出されたのだという(微苦笑)。ミャンマー人の男女交際は、まずグループ交際から始まり(友達が応援団で駆けつけるそうだ)、徐々に二人きりのデートに移行していくのだとか。そしてもちろん、破局することもあるらしく、実際、Z君は先月彼女に振られている。(但し、男女の関係になった場合、女性の申し立てにより、二人の関係は法律婚とほとんど変わらない事実婚と見做され、男性が女性を妊娠させて結婚しないと懲役10年の刑に処せられる)。MLB君が注文してくれたウナギを作った料理がかなり美味く、酒も進んだ。やはり地元の人と地元の店で飲み食いするのが一番楽しい。大満足してホテルに帰る。

2月15日(水)

この日はMさんに連れられて、バゴー観光。(後述)

 

 

 

後述と言って何も書いていませんが、普通に観光を楽しみました。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(2)

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(4)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

6月1日(水)

午前中、ダウンタウンを散策して時間を潰して、午後、Tとの待ち合わせ場所であるHledan Centerへ電車で向かう。お金の節約に頭が回るようになったということは、若干心に余裕が出てきたということだろう。かなり早く着いたので、ドーナツショップでブログをまとめる。Tは少し遅れてやって来て、二人で近くの洒落たレストランへ。この日TはMPTと提携している電通主催のセミナーに出席したらしい(彼女は「デンスー」としか発音できないが)。ここには書けないが色々と細部を詰める。途中、またいとこの女性がやってくる。また近くにいたのか……と思ったが、ああこれは未婚の女性が男性と二人きりにならないよう配慮しているのだと気づく。街中でもカップル+女性の女友達という三人組でデートしている人たちをよく見かける。三人で食事した後、タクシーでホテルへ帰る。また彼女の写真を撮るのを忘れたな。

結局、彼女はこの話降りましたが、いまでもFacebookの友だちです。どうやら彼女はミャンマーエリートのようでヨーロッパとか東南アジアの他の国に頻繁に出張しておりますね。

6月2日(木)

昨日で今回のミッションが終了したということで、便意も食欲も睡眠欲もなく、’透明な存在’になって、ひねもすボッーとしている。わかりやすすぎるだろ、自分の身体。

6月3日(金)

このままだと今日も無為に過ごすだけの気がしたので、「インセイン地区に日本語を教えている僧院がある」というY女史の言葉を頼りにスロートレインでインセイン駅に向かう。

 

これが乗車駅のピイ・ロード駅。「スタンド・バイ・ミー」ごっこをしたいなら、うってつけだ。

 

 

沿線には貧困層のバラックが軒を並べている。再開発とかになったら容赦なく追い出されるんだろうねえ。

 

 

インセイン駅に着きました!……が、駅の売店の人もタクシー運転手も「そんな僧院知らない」と首を振るので、仕方なく駅周辺を散策。

するとヤンゴン技術大学に辿り着く。キャンパスをウロウロしていると、ある建物から讃美歌が聞こえてきたので、中に入って、男子学生に僧院のことを尋ねる。が、彼らも「知らない」と首を振るばかり。ここで気力が萎えた私は出直すことにして、バスでダウンタウンに帰る。

6月4日(土)

朝食を食べた後、バスでダマラキタへ。一番前の席に座って車内の写真を一枚撮ると、突然、ミャンマー人にしては珍しく顔に化粧を施した小柄な若い女性が私の隣に座り、「あなた今写真を撮ったわね? 私は警察官なんだけれど、バスの車内で写真を撮るには税金を払わなければいけないのよ」と言って、お金を請求してきた。旧式の詐欺だなと即座に理解した私は彼女に警察官の身分証明書を見せろと迫り、その間に撮った写真を消す。困った顔になった彼女は突然車窓から外の駐車中の車を指差し始め、「私はこうやって違法駐車の車をチェックしているの!」と言い出した。その様子がなんともいじらしく思わず微苦笑。その後、彼女は「私の恋人」と言って日本人か韓国人のおっさんとホテルの一室でキスしている写真を見せてきて、「私22歳、彼は19歳」と日本語でのたまった。どう見ても50歳以上にしか見えないのだが……それにしても愛人稼業に首を突っ込んでいるとはいえ、その表情はあどけなく、態度には嫌味がなく、この子に引っかかる男はいるだろうなあと思った。僧院に着いて、いつものように絶賛遅刻中のN先生を待っていると、突然、彼女から電話が入り、スーレー・パヤ近くで結婚式に出席しているのだが、式が伸びて、僧院に来るのが遅れるという連絡が入る。そうこうしているうちに女性教師の一人Nさんとその子供2人がやってきて、Nさんと相談の末、今日は聴解を中心に授業を行うことになる。子供2人が大変活躍した。またミャンマーの日本語教育は暗記中心で、まったく頭を動かさないので、練習問題は教師役が正解と解説を述べる前に生徒にやらせるとにした。授業の終わり頃、N先生が慌ただしくやってきて、教壇に立つ。いや、忙しい人だ。この人にはまだ子供を産むというミッションが残っているのだが、よしんば彼女が出産・育児という事態になった場合、この僧院を切り盛りしていけるのかと不安になる。後を継げるとしたら……Wさんだな。またしても頼りになるのは女性だ。帰り際、宿の女の子たちにロールケーキを二つ買って帰り、いつもは不愛想なマネージャーに相好を崩して礼を言われる。

6月5日(日)

夜中起き出して、8階のルーフのハンモックに寝転んで煙草を吹かしていると、背の高い若い白人がやって来て、外にアザーンが流れる中、床にタオルを敷いてお祈りをし始めた。ムスリムである。挨拶も返さず、思いつめた様子で不気味だった。この時分、ムスリムに改宗した若い白人男性が何しに仏教国のミャンマーにやって来たのだろうか? 朝、チェックアウトする際にマネージャーに報告したが、「何も心配ないですよ」という返事。そうだったらよいのだが……その後、今回は1000チャットのミニバスでダマラキタへ。行き際、自転車の後部座席に座ったWさんと邂逅。やたら綺麗な服を着ていて、結婚式の帰りなのだという。Wさんの日本語はややぞんざいで、男っぽく、話していて気持ちがいい。この日はN先生が珍しく早くやって来て、つつがなく授業を行った。授業が終わった後、少し話し込む。僧院で授業がきちんと行われているという評判が広がっていて、秋に開講するBasicクラスでは生徒の増加が見込まれること、中国系ミャンマー人が中国語とミャンマー語を話すので中国語を学んでもあまり就職に役立たず、結果、日本語と韓国語の人気が高まっていること、ティラワ経済特区における日本企業の進出がいよいよ本格化するため日本語学習者には就職のチャンスが広がっていること、途中、N3受験者を教えている40歳独身男性も加わって、みんな字が下手になっていることなどなど。話が終わると、N先生は「すぐに戻ってくる」と言って、一旦姿を消した。その間、件の男性教師に「なぜ独身なんだ?」と尋ねると、「自分でも分からない……」と言って苦笑した。そうだよねえ。が、真顔に戻ると、彼は突然「ビール飲みに行きませんか?」と言った。びっくりして、「いや、もうすぐ空港へ行かないといけないから……」と断ったが、すると彼は日本のビールはアサヒが美味いと語り始めた。目が座った感じで、どうやらアル中のようだ。やれやれ。4時頃、NSS先生が旦那のバイクに乗って戻ってきて、餞別に綺麗な手編みの掛け軸をプレゼントされた。 ということで今回も大いなる成果と課題を残したミャンマー訪問だった。

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(3)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

5月25日(水)

午前中にKとTに大事なメールを出した後、力尽きて夕方まで昼寝。起きた後、昨日から宿に泊まっている長渕剛似のやはり福岡出身だったYさんとBBQストリートへ。私が婚活事業をしたいと言うと、「ほう」という顔をして、人妻、シングルマザー、女子大生、タイ人、タイ人娼婦、韓国人などこれまでの自分の女性遍歴を披露してくれた(ここに書けない話も沢山)。所謂、リア充である。ミャンマー人との比較でタイ人女性のことを尋ねると、基本、日本人よりも貞操観念が強く、夫を立てる気風の持主だが、外国人に毒されてアバズレも多く、当たり外れが激しいという回答を得た。現在のところミャンマーにはバンコクのタニヤのような歓楽街もなく、擦れた感じの女の子でもノースリーブを着ておらず、酒場で男女が飲んでいる姿もあまり見かけないが、近い将来タイみたいになってしまうのだろうか? 二人でしこたま飲んで、門限の11時を少し過ぎて宿に帰る。

基本、日本人男性のタイ人女性話はあてになりません。タイには何をして暮らしているかも判然としない不良日本人が多く、彼らが下層や水商売の女性と交際して、暇なのかその様子をブログなどに綴っているのでネット上ではすこぶる評判が悪いですが、あたとりまえですが常識的な人が一番多いです。

5月26日(木)

二人からメールの返事がなく、身動きが取れないので、たまには観光をしようと、モーターボートでヤンゴン川の向こう岸に渡る。

川の向こうにあったのはヤンゴンの喧騒とは別世界の貧民窟。住んでいるのはインド人だった。ダマラキタの生徒が「金がない」といっても、ミャンマーではまだまだ恵まれているほうなのだと実感。帰りのボートで一緒だったインド人に「外国人はフェリーに乗るんだ。ボートに乗るなんてクレイジーだよ」と言われる。夜、7階の食堂でYさんと駄弁る。YさんにSYNやKTTやMMAやSRやN先生の妹など私のお気に入りのミャンマー人の女友だちの写真を見せると、「日本人に似ている」「すっぴんでこのレベルとは末恐ろしい」「童顔」という感想を得た。「外国人の素人女にここまで入れ込んでいる日本人男性は初めて見た」というのがYさんの私評。光栄至極。

当時は知らなかったのですが、ヤンゴン川の向こう岸はダラ地区と呼ばれる最貧困地区でした。あまり一人ではウロウロしないように。

5月27日(金)

休憩。朝、Yさんを送りだした後、ボーヂョー・アウンサウン・マーケットでシャツとロンジーを買う。その後は何をしていたか記憶なし。

5月28日(土)

ダマラキタへ。いつものように昼食をご馳走になっている間、僧院長からヘイグォというミャンマー名を頂く。ミャンマーでの通名はボノにしようかと思っていたが、これは無碍にできないだろう。授業が始まる1時10分前になってもN先生は来ず(いつものことだが)、生徒たちも3人ほどしか集まらず、果たして今日は授業があるのか訝しく思っていたが、やがてポツリポツリと生徒が集まり始め、駐在員の奥様でボランティアで先生をしてくださっている二人の日本人女性(とその子供)もやって来た。そのうちWさんが姿を現し、「今日は先生はお寺の仕事で忙しいので、来れません」と言って、代わりに教壇に立つ。Wさんの教師ぶりはN先生を彷彿させる堂々たるもので、日本人女性二人も教え始めて3ヶ月以上になるからか、こなれた感じだった。私要らないな(笑)。

その後、夕方五時頃、久しぶりにマノーラマ僧院へ。僧院に行くまでに乗ったタクシーはやたら裏道を回っていたが、結局、一時間以上もかかった。僧院に着くと、ボランティアの小僧たちが、前よりも上手くなった日本語で挨拶してくれた。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」である。教室には中国製のエアコンが入っており、皆、スピーチの練習をしていた……が、それにしても超絶アウエー感。知人がおらず、私に気づいても女の子たちは誰も挨拶してくれない。そんな中でFBでやりとりしたことがあるだけのNさんだけが会釈してくれて、とても嬉しかった。また男の子たちも私に気づくと挨拶してくれた。なぜか私はミャンマーの男性とは労せずして友好な関係を築ける。女性も可愛いが、男性もイケメンが多いので、ホモセクシャルだったら、ここはパラダイスだろう。授業の終わりのトークコーナーでは、昨年のスピーチコンテスト優勝者であるYOさんと一緒のグループになって、日本から持ってきた「完全自殺マニュアル」の解説をする。果たしてミャンマー人に受け容れられるか半信半疑だったが、思いの外受けたようで満足。またエリンクラスN0.2の実力者YKさんのスピーチコンテストの原稿の手直しを少し手伝う。内容はスチュワーデスの試験に不合格になって、自分を見つめ直したというもので、なかなか感動的だった。上手く読めたら優勝争いに絡めるのではないだろうか? 「是非、優勝して日本に来てください」とYKさんを激励して、今は二本の平行線でもいつか交わることを願いつつ、教室を後にする。宿に帰ると、一昨日出て行ったはずのYさんがいた。チケットトラブルでヤンゴンに舞い戻ったのだという。少し二人で駄弁って就寝。

マノーラマには定期的に通っている日本人の方々がいるのですが、どうやら彼らに好かれていないようでした :lol:世の中どこへ行っても村社会です。

5月29日(日)

ダマラキタへ。片道6000チャットのタクシー代がいい加減堪えてきたので、今日は片道200チャットのバスで行ったのだが、思いの外すんなり行けた。これでかなりお金をセーブできそうだ。いつもどおりN先生は20分以上遅れて、授業が始まる……が、授業中も頻繁に先生の携帯に電話がかかってきたり、途中、誰かがやってきて話し込んだりしていて、その間、私が代わりに教壇に立って授業をした。特に二月から真面目に教室に通っているものの、恥ずかしがって頑として日本語を話そうとせず、上達が遅い女の子二人を集中攻撃。既にして一人には完全に私に愛想を尽かしていて、私の顔を見るとすねた顔をする(笑)。すまないね、君たちのためなんだ……が、そんな彼女の年齢が29歳だと知ってびっくりする。やることなすことガキ臭いので、てっきり20代前半だと思っていたのに。こんな高学歴とも思えない子でも独身でいるのかとミャンマーの晩婚化の進行を目の当たりにする思いがした。授業が終わると、N先生は「便秘に気をつけて」という言葉を残して、そそくさと帰っていった。宿に帰ってパソコンを開けると、ようやくKとTSからメールが返ってきていて、謹んで返事を書く。その後、Yさんと駄弁る。Yさんは旅先で出会ったミャンマー人の人妻にご執心らしく、「Hさんがミャンマーにこだわるのもわかる気がする」という言葉をいただく。タイ人はやはりタイ人だけれど、ミャンマー人にはそういう外国人に対する違和感が少ないのだという。そうだろうね。だから私は色々辛い思いをしてでも、ここにいる。他にも色々アドバイスをいただいて、就寝。

ヤンゴンはすごい渋滞なのでタクシーに乗る意味があまりないです。バスは格安なのでおすすめです。

5月30日(月)

朝、今度こそ旅立つYさんを送りだした後、Tとアポを取る。これが今回の視察の最後の仕事になるだろう。マンダレーには行けそうもないな。二日間連続で教壇に立ったので身体はフラフラ。ダウンタウンを散策した後、昼寝後、就寝。

5月31日(火)

案の定、TSから返事がないので、やんわりと催促のメール。ミャンマー人は仕事が遅いのだが、かといって30歳を超えた女性のプライドを傷つけるわけにもいかないので、このへんは神経のつかいどころだ。昼は勇気を出して屋台で飯を食う。前回は完全アウトだったが、どうやら火を通したものであれば、胃腸が堪えられるようになったようだ。これで食事のバリエーションも増えるし、お金も節約できる。一休憩した後、近くのアドミニストレーション・オフィスへ。そこで一番偉い(でも若い)男性がほんの少しだけ英語を話せて、私の話を理解し、「イミグレへ行け」と言われ、初老のなぜか「日本」と「緬甸(ミャンマー)」と漢字で書ける男性(写真)に連れて行ってもらう。が、そのイミグレの女性がまったく私の話を理解せず、早々に引き上げる。うーん、困った。夜も屋台の焼き鳥とインスタントラーメン。宿に帰ってメールを開けると、TSから返事が来ていた。明日の午後6時Hledan Centerで待ち合わせすることになる。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(4)

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

5月18日(水)

午前中、ホテルのロビーでTさんと話し込む。ヤンゴンからマンダレーへ行く列車でボラれたので、帰国したらミャンマー政府に厳重に抗議しにいくと騒いでいた。「大金持ちなのに小さな人間やなあ」と思ったが、色々話を聞いていると、毎年社員を10人ほど東南アジア一ヶ月旅行に連れ出したり、外国人に日本人と同じ給料を払ったり(しかも住み込みだから食住はタダ)、宿の住み込みの女の子に毎日3ドルほどのお菓子を買ってきたり、いいところもいっぱいある人だった。「彼女たちの月給はどれくらいなんや? 100ドルくらいか?」と尋ねられたので、「たぶん30ドルくらい」と答えると絶句していた。彼女たちは愚痴一つ零さず毎日早朝から深夜まで働いているが、愚痴も出ないというのは、それだけ世間を知らないということである。恐らく学校も小学校しか出ていないだろう――が、そんな彼女たちを出稼ぎなり、嫁さんなり、日本に連れていこうとしても、家族や友だちから離れては生きていけないので無理なのである。午後、再び例の弁護士ビルに向かう。まず初老の弁護士二人に相談。二人とも私の話を聞くと苦笑し、首を捻りながら、「まあ、大丈夫なんじゃないの」と答える。次に訪れたのは先の二人に比べて大きくて綺麗な事務所に勤める美人女性弁護士……が、彼女は私の英語をまったく理解せず、通訳を連れて出直してこいといわれる。かなり優秀そうな感じでピンと来たので、後日、出直すことに。宿に帰って香港人のヘンリー・チャンと談笑。途中で大阪の社長も加わって、日本語と英語のチャンポンで訳の分からないことになる。ヘンリーとFBで友達になって、彼のページを見てみると、「原來日本周文健係做婚姻介紹,等我以為係殺手或特務之類,真係令人失望」と書いてあり、翻訳を読むと、「一週間の日本オリジナルの男は結婚は金が導入され, 私の考えはキラー又は代理人は何か, 本当にがっかりだ」とあった。さては漢字が読めないと思って俺の悪口を書いたなと思って問い質すと、「君は香港映画の『City Hunter』に似ているという意味だ」という返事が返ってきた。あれは日本のアニメだっての。

件の女の子たちは農村部から出稼ぎです。私が貧困層の女性との結婚は止めておけと繰り返し述べているのは、彼女たちの交流から来るものです。たしかに愛おしい子たちなのですが、教育水準の低すぎてミャンマー語の読み書きすらできず、視野も狭く、融通もまったく利きません。日本に連れてきて配偶者とするのは非常に難しいでしょう。

5月19日(木)

恐らく昨晩の魚フライの油のせいで、夜中に持病の胃炎が発病して、ひとしきり吐く。Tさんはわさびのフリカケと「ファシズムの臭いがするでえ」というセリフを残して日本に帰っていった。私は通訳探しに出かける。前回会ったコンサルタントのTさんの「このへんに日本語が得意な奴がおる」という言葉を頼りに、宿の近くを探索すると、ミャンマー・コンパス・ツアーとカタカナで書いている看板を発見。中に入ると日本語堪能な中年男に迎えられ、事情を話して通訳を頼むが、本人は多忙で時間がなく、友達に連絡してみるといわれた。宿の8階のルーフで時間を潰していると、突然、不穏な空模様になり、大粒の雨が降って来た。雨季に入ったのだ。昼食から帰ってきてメールを開けると、旅行代理店の男性からメールが入っていて、皆忙しくて適当な人物が見つからないという返事。仕方がないのでネットでヤンゴン在住のミャンマー人日本語通訳を探してみると、結構料金が高く、これならばこの案件に最適な弁護士を見つけ、然る後、通訳を見つけたほうがいいと判断。マンダレー行は再来週に伸びそうだ。夜はヘンリーと一緒にBBQストリートへ。彼は映画の脚本を書いていたのだが、仕事を辞めて、旅に出たそうだ。タイのお寺で一ヶ月修行して仏教徒になり、酒も煙草も止めていた。そんな彼は私の婚活事業に興味を持ち、副業として俺も香港でそれをやる、俺の女友達を日本人男性に紹介しようと言ってきた。なんでも現在の香港は政治情勢が不穏で、逃げ出したいと思っている人たちが沢山いるらしい……が、それにしても彼も私の英語を理解せず、意思の疎通に苦労した。そんなに発音が悪いとは思わないのだが。

この三年後香港は本当に大変なことになりました。

5月20日(金)

完全休養。ミャンマーでは無理にでも休まないと体調崩すからねえ。午前中はボーヂョー・アウンサウン・マーケットを冷やかして、コットンのシャツを買う。9500チャット。それにしてもミャンマーの女性の服は種類も豊富でファッショナブルなのに、男性の服は地味だ。ホテルに帰る途中、スコールに遭う。ミャンマーの雨季は晴れ時々台風という感じで、道路は完全に洪水状態。不覚にも傘を忘れた私はずぶ濡れになってホテルに戻る。午後は何をしていたか覚えていない……夜、ヘンリーとスーレー・パヤー近くのビアホールで飲む。副業として婚活事業に乗り出すことに決めたということで、禁欲を解いたのか、ヘンリーは煙草も酒も嗜んでいた。婚活事業に関してはかなり本気らしく、根掘り葉掘り聞いてきた。中国人のこういう現金なところは本当に好きだ。また彼は「インファナル・アフェア」でもマフィアのボス役で出演していた香港の有名俳優エリック・ツアンと一緒に撮った写真を見せてくれた(写真左の身体が切れているのがヘンリー)。芸能界とコネがあるということは女優並みの美人を紹介してくれるのだろうか? 二人で飲んだ後、宿に帰って寝る……が、真夜中に吐き気を催してトイレに駆け込み、ひとしきり吐く。食べ物が当たった気配もないので、恐らく季節の変わり目に身体がついていかないのだろう。

もちろん、香港人の女性紹介は酒の席だけの話に終わりました 😆 香港も出生率が1.12で、未婚率も日本以上に高いと思われますが、香港人男性を選ばなかった女性が日本人男性を選ぶとも思えず。これまた日本よりも出生率が低い韓国人女性もしかりです。

5月21日(土)

朝からだるく、朝食はマンゴだけですます。10時半頃、今日の夕方にバガンに発つヘンリーと別れ、ダマラキタへ。例の上達の早い女の子が先に来ていて自習しており、その子曰く「今日はN先生は来ません。先生は仕事が忙しいです」とのこと。日本語を勉強し始めてたった三ヶ月でここまで喋れれば立派なものだ。ということでこの日は普段同じ教室でやっている10人ほどの他のクラスに付き合う。7月3日にN5を受ける女の子が2人いて、なかなかできがよく、特にマンダレー外国語大学出身の女の子は長文でもスラスラ読めて、N4も行けるのではないかという勢い。日本人と話す機会がないので、なかなか会話が上達しないのがミャンマー人日本語学習者共通の悩みだ。今日は停電がひどく、途中、窓際に場所を変えて授業を続ける。5時頃、僧院を辞去してホテルに帰るが、明日会うはずのTSと電話が繋がらない。バンコク出張中と聞いていたが、ひょっとしてまだタイにいるのだろうか?……と思っていたら案の定Skypeに彼女からその旨のメッセが入っており、帰国次第電話するとあった。ホッとしてホテルの外で煙草を吸っていると、隣のコンドミニアムに住んでいる翁と顔を合わせる。時々会釈する仲なのだが、この時、突然、日本語で話しかけられてびっくりした。恐らく日本占領時代に日本語を習ったのだろう。歴史的感動を覚えながら、体調不良に抗えず、大事なTSの電話を待たずして就寝。

5月22日(日)

引き続きだるい。朝、TSと電話が繋って会う約束をするが、彼女は電話の切り際に「see you, see you」とながやりに言って、なんとも面倒臭そうな様子。最悪な一日になる悪寒を催しながらダマラキタへ。いつものように僧院長が昼食を用意してくれたが、体調が悪く、半分以上残してしまう。食事を残してもいい文化圏らしいが、日本人の私はいつまで経ってもこれに慣れない。時間にルーズなN先生はいつものように20分以上遅刻。その間、8歳~21歳までお坊さんをやっていてその後俗世に戻ったN2を所得した青年と同じくN2を取得してヤンゴンプレスで働いている青年と駄弁る。結構、色々な人がこの僧院に関わっているのだ。授業ではいつものように聴解を手伝ったが、途中、N先生の目の前でロンジーを結び直していると、先生は心底げんなりした顔をして、「先生(私のこと)、しっかり結んでください」と言った。正直、これくらいのことでそんな顔しないでくれ、と思うが、ミャンマー人女性の貞操観念の強さを見る思いだった。僧院の奥のほうで人知れずやっていた今度N3を受験するクラスにも顔を出す。さすがN3受験者の出来はよく、「何か質問はありませんか?」と尋ねると、「今、先生から習ったばかりなので、何もありません」というキツイ言葉が返ってきた。そこでN先生と同じ会社で働いているWさん(20代前半・既婚・ダゴン大学卒)と再会。毎週、このクラスに顔を出しているらしいが、今の今まで気づかなかった。横で授業を見ていたヤンゴンプレスの記者が「Wさん、あなたのことを話したい」とクスクス笑って様子が可笑しいので、授業が終わった後、Wさんにその点を問い質すと、どうやら私のことをあちこちで話しているらしく、僧院関係者は皆私のことを知っているのだという。僧院の女生徒たちが警戒するといけないから黙っていたというのに、なんということだ(微苦笑)。Wさん曰く「日本で働きたいと思っている人は沢山いるが、日本人と結婚したいと思っている人はあまりいない。みんなびっくりしている」とのこと。その後、タクシーでTSとの待ち合わせ場所であるThamine City Martへ。TSはそ美人ではないが、N先生と同じヤンゴン外国語大学出身のとても快活な女性だった。カフェでジュースを飲みながら相談。やはり彼女も私の英語を解さず、どうやらミャンマー人と日本人の英語は相性が悪いようだ。なんで私の話に興味を持ったのだ? と尋ねると、「周囲が未婚女性ばかりだから」という答えが返ってきて、彼女もまずはミャンマー人同士の婚活サービスを始めるべきとアドバイスしてきた。途中、彼女のいとこの女性も加わったが、体調不良の私は折を見て辞去。帰りに乗ったタクシーの運転手は日本と韓国に出稼ぎにいった経験があるらしく、日本をべた誉めして、韓国を貶していた。降り際に名前と電話番号の入ったメモを貰う。

私は反韓ではないのですが、ミャンマーでも韓国人の評判は非常に悪いです。傲慢、粗暴、狡猾……正直、東南アジアの”親日”というのは中国人・韓国人・日本人と付き合った結果、日本人が一番マシという消去法によるものです。このへんもオーバーに言う人はあまり信用しないように。

5月23日(月)

ついに吐き気だけでなく下痢も来てしまった。午前中はブログをまとめる。午後、TSから約束の資料が送られてきたが、そんなものを読む気力もなく、早々に就寝。

5月24日(火)

前ミャンマーに来た時に薬局で買った薬を飲んだら下痢が治った。早速、TSが送ってきた資料を開けてみると、これがミャンマー投資法の英文。法律の条文そのまま読めってそりゃないだろう……と思ったが、ミャンマーでは特権階級はいざしらず、高学歴者レベルでも一事が万事この調子なのだと了解。結局、その資料は捨て、日本から持ってきた資料を一日じっくり読み込む。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

5月11日(水)

藤が丘駅から中部国際空港へ。今回はベトナム航空だったが、終始、ひどく揺れて居心地悪かった。天候のせいなのか、それとも機体のせいなのか? 途中、トランジットで立ち寄ったハノイでじっくりベトナム人を観察。11年ぶりの生で見る現地のベトナム人だったが、中国の影響下にあるからか、やはり活力に満ちている。ミャンマーも教育水準の低い人間はそんな感じなのだけれど、なぜか高学歴の男性には優男が多い。女性はどうだろうか? 少なくとも外見はミャンマー人よりも外国人感が強いような気がするが、これは贔屓の引き倒しかもしれない。ヤンゴン空港に着いた瞬間、もわっとした空気に包まれる。宿は引き続きホワイトハウスホテル。ムスコが迎えてくれたが、通された部屋は窓も換気口もない密室で、仕方なく前回はホテルの経済的負担を少しでも軽くするために一度も電源を入れなかったクーラーを入れる。三菱電機の製品。荷物を置いた後、前回、バックパッカー夫婦に教えてもらったバーで黒ビールを二杯飲む。ほろ酔い気分で早々に就寝。

顔はミャンマー人のほうが日本人に近く、文化はベトナム人のほうが日本人に近いと今では思っています。

5月12日(木)

早朝に目が覚める。煙草が切れてたので、近くの雑貨屋に買いに行くが、ルビー一箱900チャット取られる。コンビニで買えば600チャットなのにこれはボリ過ぎではないか?(※後で知ったが、あくまでもこれは例外で、ヤンゴンでは煙草は雑貨屋で買ったほうが、コンビニやスーパーで買うよりも安い)。朝食を食べた後、連絡を寄こさなくなったKに電話をかけるが、何回かけても繋がらず「電源が入っていない」というアナウンスが流れるのみ。その後FBで知りあったマンダレーのTに電話をかけたが、こちらは繋がったから、ひょっとして着信拒否されているのではなかろうか? その後、USB式高速インターネットなるものを手に入れるために、近くのKMDコンピュータースクールを訪れるが、店員の説明が要領を得ず、一旦ホテルに戻ってパソコンを持って出直したところ、なんとか意思の疎通に成功し、目的のものをゲットする。今日はホテルのwifiの調子がよく、これに乗じて前回の視察の日記をまとめにかかる。が、その時、KのFBの友達に彼女の消息を尋ねることを思い立ち、メッセンジャーでメッセージを送ろうとしたのだが、その最中、なぜかFBのアカウントが一時的にロックされる。運営部の説明によると、誰かが私が偽名を使って利用していると通報したらしいが、そんなことしていないし、仮にしていても、FBで偽名を使っている人間は腐るほどいるのだから、通報するというのもおかしな話だ。一体誰の仕業だ? と訝りつつ、アカウントの復旧を試みるも、結局、断念。近くの中華街に夕食を食べにいって、注文した回鍋肉が出てくるのを待っている間、可愛い可愛いSに電話。メッセンジャーが使えなくなったことにかこつけて、マノーラマ僧院のエリンクラスの授業の予定を聞くことを口実に、ただ彼女と話がしたくて電話をしたのだ。「ちょっと待ってね」という若干たどたどしい日本語が可愛らしく、17歳の美少女との短い会話を存分に楽しむ。まさにおっさん冥利に尽きる。

当時、Facebookを使い始めたばかりだったので、まだ使い方がわからなかったのです。ちなみにミャンマーはインフレ率が高く、件のタバコは昨年秋の段階で1200ksしました。なんと二倍になっていますね。あと写真の回鍋肉は大好物だったのですが、現在でパイナップルを入れるようになって味が変わってしまいました。残念です。

5月13日(金)

夜中に起きて、ひょっとしてKは警察官ではないのか? という疑念が脳裏を過る。ネピドーで働いているというのだから、恐らく身分は公務員だろう。そしてビジネスパートナーを装って私に近づき、職権で以て私のFBアカウントを停止させたのだ……が、それならば途中で連絡を絶つのもおかしな話。どうせならば私と会って根掘り葉掘り私の話を聞き出し、いよいよ婚活事業に乗り出す段になって、私を逮捕すればよいではないか。それに彼女の容貌はどう見ても警察官のそれではなく、彼女がしてきた質問も国際結婚一般に関するもので、私の素性を聞き出す感じではなかった。やはり年下の女性を交えたことによる嫉妬だろうか? それにしても私のFBのアカウントを停止にかかりにくるとは、その心の暗さにうすら寒い気分になる。あんな賢そうな人がこんな真似をするのか……が、朝起きて朝食を食べ終わってパソコンを開くと、既にしてFBアカウントは復活していた。日本語能力試験の問題例をコピーして、ムスコからミャンマーのアンドロイドユーザーはmobo marketというウェブサイトでアプリをダウンロードすると聞いたので、Zoo Stationのリンク先を変える。あまりにも暑いのでタナカを買ってきて塗るが、いまいちミャンマー人のように格好良くとはいかなかった。部屋でパソコンを弄っているとKが久しぶりにログインしていた。メッセンジャーに何か書き込んだので読んでみると、仕事が忙しくて返事ができなかった、明日か明後日しか暇がないのでいずれかの日に会おうとのこと。怪しいと思ったが、明後日会うことにする。再度電話をかけてみたが繋がらない。仕方がないのでメッセンジャーの電話機能を使うと、やっと繋がったが、思いの外テンションの低い声だった。まあ英語だからかもしれないが、とにかく事態は急転直下、日曜日にKとシャングリラホテルで会うことになった。さらに近々実習生として日本に行く予定の可愛い可愛いKTTからメッセが入り、日本での緊急連絡先として私の住所・電話番号・メールアドレスを教えたことについて礼を言われる。24歳の女性が単身日本に渡るって本人も家族も不安だよねえ。実習生制度については悪い話をよく聞くので私も心配。

5月14日(土)

朝食を食べ、顔と手にタナカをべたべた塗った後、お土産を抱えてダマラキタ僧院を訪れる。相変わらずの渋滞で遅刻しないか冷や冷やしたが、なんとか約束の12時前に着く。見覚えのある子(写真)がかなり日本語を話せるようになっており、「ヤマモトさん!」と名前を間違えて挨拶してきて、しばらく談笑。僧院長も笑顔で迎えてくれる……が、教室の顔ぶれを見て愕然。人数は前と同じ40人くらいだったが、知っている顔は片手ほどしかいなかった。今度会うときはせめて半分くらい残っていたら……という私の淡い気持ちは粉々に砕け散る。特に男の子は全滅。やはり仕事しながらでは勉強に集中できないのだろうか? N先生と再会して笑顔で挨拶。授業が始まる前にM日本語学校と提携している一般社団法人ナントカの方が説明をする。本当は色々聞きたいことがあったのだけれど、真っ当な社会人の前に気後れしてできず、終始、静かに話を拝聴。説明が終わると授業が始まり、私も聴解を少し手伝った。授業が終わった後、僧院に寄付する宮崎駿作品のアニメコミックと学習漫画日本の歴史、そして先生へのプレゼントとして本を何冊かと昔インドのリシュケシュで韓国人女性から貰ったブッダガヤのブッダが悟りを開いた場所に生えている木の葉を渡す。私にとってはただの葉っぱでもリアル仏教徒たる先生(と旦那)にとっては大きな意味があるだろう。あと前来た時にここで教師をしていて、「将来自分の嫁に」とほんの少しだけ思っていた女の子へのプレゼントに日傘を持ってきたのだが、残念ながら既にして彼女の姿はなかった。これでは将来の嫁どころか永遠に音信不通である。その後の授業にも付き合った。Basicクラスが二クラス並行してやっており、相変わらずの大所帯だったが、果たしてこの中で何人残るやら。

ちなみに強者が弱者に施すのは当然と考えられているお国柄なので、寄付してもさほど感謝されず、手続きは極めて事務的に行われます。

5月15日(日)

12時にKとの待ち合わせ場所のシャングリラホテルへ向かう。相変わらず電話が通じないのでネットが通じるパソコンを持参。少し私より遅れてやってきたKは写真よりも若干老けて見えたが(写真は6年前のものらしい)、とても上品で綺麗な人だった。中のカフェで話をする。開口一番、「君は秘密警察じゃないのか?」と尋ねると、彼女は口をあんぐりと開け、「それでもいい。人権と民主化の時代がミャンマーにやって来た。考え方を変え、職業を変え、警察官から婚活業者に転職しよう!」と言ったら、ははははとさも愉快そうに笑った。どうやら杞憂だったようだ。彼女は奨学金を貰って日本の大学に留学した経験があるそうで、授業は英語だったので日本語は挨拶程度しかできなかったが、英語は語彙も豊富で文法的にも正確でとても流暢だった。私の理解度は70%くらいといったところで、私は彼女の話を何度も聞き返し、逆に彼女は私の拙い英語を馬鹿にもせず辛抱強く聞いてくれた。国際結婚一般については、ミャンマー人女性はとてもシャイであること、婚活業者というと人身売買を連想するため警戒されること、合コン形式は可能だと思うが、一度、弁護士に相談し、然る後ミャンマーで会社の登録を試みてはどうだ? とアドバイスされた。他にデータのでどころを何回も尋ねられたのが、印象的だった。どうやら国家公務員の彼女でもミャンマーの各種統計に触れる機会は乏しいようだ。なぜ私の話に興味を持ったのか尋ねると、彼女は率直に「お金が欲しいの」と答えた。正直でいい。結婚したいとは思わないか? と尋ねると、やはり「したい」と答えたが、相手がいないのだという。上方婚志向から逃れられないのはミャンマー人女性も同じのようだ。最後に彼女は「なんでこんな見通しの分からない仕事をし始めたの?」と尋ねてきたので、私はこう答えた。「晩婚化・非婚化の問題について大学教授は論文を書く。新聞記者は記事を書く……けれどもそれでは何も変わらないじゃないか。誰かが行動しなければならない」と。ひとしきり話し終えると、二人でシュエダゴォンパヤーへ。強烈な太陽光線に照らされた床は熱くてたまらなかったが、彼女のガイドで見学して回った。メインのブッダの仏像の前で正座して腰を曲げて祈る彼女の姿は本当に美しかった最後に屋台でココナッツジュースを飲み、二人で写真を撮って散会。ほんの少し前にネットで知りあった異国者同士で、本当にいい時間を過ごせた……と感慨に耽ってばかりもいられないのが残念。疲れきって宿に帰ると、遥か昔にメールを出した中国系の21歳のミャンマー人女性からメールが入っていた。都合が合えば、彼女とも会おうと思う。

この中国系の21歳のミャンマー人女性って誰だろう?……思い出せない。 😆

5月16日(月)

朝食を食べた後、弁護士を紹介してもらおうとI氏に電話をかけるが、なんとも素っ気ない対応。ショートメールに入れておくと言ったが、案の定、返事はなかった。商人の掌返しには慣れているが、何回味わっても嫌なものねえ。その後ネットで見つけた日本人法学者の方が関わっている法律事務所に徒歩で赴く……が、辿り着かない。途中、タクシーに乗るが、それでも辿り着かず、一旦、宿に戻る。パソコンで事務所の住所をたしかめると、なんとストリートの番号を間違えるという失態を犯しており、もう一度、今度はタクシーで赴く。88番ストリートの11番地……と住所を辿っていくと、柄の悪そうな地域に入り込む。果たしてこんなところに法律事務所などあるのだろうか……と進んでいくと、あった。88番ストリートの11番地。

ということで、徒労感いっぱいで宿に引き返してふて寝。6時頃目を覚ますと外から大阪弁が聞こえてきたので、部屋を出ると、隣の部屋に日本人男性がいた。Tさんといって、年齢は80歳、大阪で安かろう悪かろう的なスーパーを経営しており、一年に数回一ヶ月単位で海外旅行をしているのだという。バックパッカー宿に泊まっているお年寄りは大抵大金持ちか高学歴者だ。夕食から帰ってくると、また道端でTさんと擦れ違い、ひとしきり商売の話を捲し立てられる。「本気で話してるんやで」というのが彼の口癖で、最後「橋下さんは神様や!」とのたまった。大阪都構想にも諸手を挙げて賛成していたらしい。橋下維新的ネオリベラリズムがどの層に訴えているかよく分かろうというものだ。

それにしても昔はくさるほどいた若者のバックパッカーの姿を全然見ない。ホワイトハウスで見た日本人は例のボランティアサークルの学生以外は全員60歳以上だった。グローバル化の波に乗っていない若者はやはり賢い!

5月17日(火)

パソコンのUSBと電話の調子がおかしいので、修理に持っていく。電話は単にトップアップカードが切れていただだった。その後、ホテルの近くにある弁護士事務所が軒を並べているというビルへ。たしかに事務所はいっぱいあり、そのうちの一つの事務所に入る。応対してくれたのは恰幅のいい初老の弁護士。色々質問すると、彼は訛りの強い英語でベラベラ喋り始め、まずは会社を設立すること、なんとかという日本企業が沢山入っているビルの近くのオフィス街に日本語を話す若いミャンマー人女性が沢山いるから彼女たちをスカウトすることなど色々とアドバイスをくれた。他にも日本の農家はフィリピン人を嫁さんにしているなど、さすがインテリなだけあって色々なことを知っていた……が、肝心の法律知識がいまいち頼りなく、明日出直すことにする。弁護士といってもミャンマーのそれは、日本の行政書士レベルのようなんだよね……一週間の疲れがドッと出て、夕方頃、ホテルに帰って爆睡。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

2月14日(日)

早朝Tさんを送りだし、朝食を食べた後、ダマラキタへ。僧院の外で煙草を吸いながらN先生を待っていると、Mさんが車に乗って現れた。早速来てくれたのだ。N先生が来ると、「ゲストを連れてきました」と言ってMさんを紹介する。MさんがJICAの職員の奥様だと聞くと、N先生は大変驚いていた。早速Mさんに教壇に立ってもらう。授業が終わった後、「主人です」と言って、NNS先生はいかにも理系秀才風の男性を私とMさんに紹介した。旦那が医者という共通点があるということで、二人は話が弾んだようで、Mさんはできる限り僧院に来てくれると言ってくれた。Mさんが帰った後、私が「いい人連れてきたでしょ?」と言うと、N先生は「はい。先生(私のこと)のこと信用する。婚活やるんだったら、友だち紹介するよ」と言い、「それにしても」と話題を変えて、「先生が結婚していないことが大問題だよ」と喝破した。はい、仰せの通りです。ということで今週帰国する予定の私は、一旦ここでN先生と別れの挨拶。その後、マノーラマへ行って、僧院の前で坂本九の「上を向いて歩こう」が好きなお坊さんと話し込む。疲れがドッと出て、エリンクラスが始まってもいまいち集中できず、挨拶もそこそこに僧院を退散。

さすがJICAの奥様は献身的です。これぞ主婦力。

2月15日(月)

最後の気力を振り絞って帰国する前にI氏が言っていた人材派遣会社のM氏に会おうと思ってメールでアポを取る。

2月16日(火)

記憶も記録もなし。

2月17日(水)

M氏から返事が来て、明日会うことになる。

2月18日(木)

M氏の事務所へ。いつぞやにI氏の事務所で会ったK氏もいた。I氏はちょっと怖い感じの人で、開口一番、「お金が欲しいんでしょ?」とのたまった。が、それでも二人とも親切に色々教えてくれ、もう一度、ミャンマーでやる気になる。「真面目すぎる」「性格が良すぎる」というのがK氏の私評。M氏は私に興味ない感じだった。事務所を辞去した後、なんとなくそのままタクシーで帰る気が起きず、しばらく歩いて日陰で煙草を吹かす。なんだろう? この割り切れない気持ち。

M氏は畑違いの分野から実習生の派遣業に乗り出した人物です。見事なまでに頭の中は金、金、金だけ 😆 ミャンマーでは実業を営んでいる間の中ではこういう人物は嫌悪され、避けられていることも多く、私も性格が合いませんでした……が、やはり金儲けに長けているだけあって学ぶことも多く、彼との面談は糧になっております。もう私のことなど忘れているでしょうが、Mさんどうもありがとうございます。

2月19日(金)

N先生に電話して、帰国が伸びたので、明日僧院に伺うと連絡する。散髪に行く。

2月20日(土)

ダマラキタへ。僧院の前の雑貨屋で女の子の生徒と話していた時、傍にいた犬に右手の小指を咬まれる。みんな大丈夫、大丈夫言っていたけれど、狂犬病のことは頭にないようだ。帰国次第、病院に行かなければ。この日もNさんはやって来て、日本語教師の資格を持っている女友だちを連れてきた。彼女も授業を手伝ってくれるということで、ありがたいことだ。先週、大々的にサヨナラしてきたのでマノーラマに行く気は起きず、ダマラキタの授業が終わると速攻で宿に戻る。

結局、ワクチン打つの忘れていて今もしていません。まあ、もう大丈夫ですよね?先日、母国で犬にかまれて狂犬病を発症したフィリピン人の方が亡くなって背筋が寒くまりました。 😥

2月21日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、途中参加の4人を居残りさせて、あいうえおの練習をさせる。「つ」を上手く発音できず、「す」と言ってしまうのが、ミャンマー人の泣き所。

この四人のうちの一人の子が私になついていたのですが、この後、一度も顔を合わせていません。出来はあまり良くなかった……元気にしていればいいけど。

2月22日(月)

宿に泊まっている大阪出身の84歳の女性Fさんと親しくなる。84年から年に数回世界を一人旅しているらしく、北極から南極まで行ったことがあるのだという。その人生も波瀾万丈すぎて書ききれない……というか機関銃のようにのべつまなく話すのでほとんど頭に入らなかった。息子さんは京大を卒業して大阪大学の理系学部の教授をしているのだそうだ。昼、そのFさんと宿の近くの中華料理屋に行く。私の仕事の話をすると、「趣味やな」と一蹴される。ま、Fさん、学歴コンプレックスを自認するだけあって、権威主義だから……でもその後その何倍もの励ましの言葉をいただいた。

Fさんとは今でも年賀状のやりとりをしています。彼女は90歳近くになっても単身チベットに行ったり、サハラ砂漠に行ったりしています。すごいですね。

2月23日(火)

この日も昼はFさんと中華料理を食べにいく。帰りに宿の女の子にミニケーキを買って帰ろうと、Fさんが昨日行ったケーキ屋に行くことにしたが、これがなかなか見つからず、1時間近く炎天下のダウンタウンを歩く羽目になる。宿に帰った後、爆睡。夜、Fさんとカレーを食べにいったが、帰りはタクシーに乗った。深夜、恐らくカレーを食べた後に路上で買った天ぷらの油が当たって、ひとしきり吐く。

当時から胆石を患っていたんですね。町医者の超音波検査ではわからず、胃の病気だとずっと思っていた。日記には全然書いていませんでしたが、ミャンマーの料理は油が多いので、よく吐いていました。

2月24日(水)

早朝、ヘロヘロの身体で旅立つFさんを見送った後、寝込む。ちなみにFさんからは帰国後丁重な文面の葉書をいただいた。

2月25日(木)

I氏に帰国の挨拶に行く。そこでその後東京ダジャン祭り実行委員会で再会するNさんと邂逅。I氏にはかなり邪険に扱われた印象。そこの食堂で食べたチキン南蛮に当たって、再び嘔吐・下痢に襲われる。せっかく高い金を払って日本食を食べたというのに、なんてことだ。

I氏は好人物なのですが、女性嫌いの同性愛者なので私は疎んじられたようです 😆

2月26日(金)

一日中嘔吐と下痢に苦しむ。宿の前にある薬局で薬を買って飲むと、少し症状がよくなる。

2月27日(土)

なんとか体調が回復して、ダマラキタへ。僧院長に昼食をご馳走になる。写真にあるとおり、ミャンマー人は結構いいものを食べている。何が面白いのか、僧院長と一人の女の子が食事中の私の写真を撮っていた。この日はN先生は日本出張のためにお休み。M日本語学校のT氏が来ていて、生徒を勧誘していた。T氏は炎天下で写真をパシャパシャ撮っており、私が「日陰にいないと危ないですよ」と言っても、「湿気がないんで、僕は割と平気ですね」と笑っていたが、帰国後、体調を崩して寝込んでいたらしい。

2月28日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、生徒たちが礼をしてくれた。その後皆で相乗りバスに乗って、日本・ミャンマー共同主催のフェスティバルへ行く。会場では様々な日本企業のブースや屋台が出ていた。私はたこ焼きを買って、生徒たちに配って回った。N先生はたこ焼き、餃子、焼売、焼き鳥などあらゆるものを食べていた。私も勧められたが、体調不良のため、やんわりと断る。会場には1時間ほど滞在し、先生や生徒たちとはここでお別れ。N先生からは「先生(私のこと)、またミャンマーに来てください」という言葉をいただいた。切ない気持ちでタクシーで宿に帰る。

2月29日(月)

午前中、60代の年金夫婦パッカーと8階のルーフで話し込む。60代といっても二人とも若々しく、旅に出て一年半になるそうだ。その後、スーレー・パヤ近くのビアホールで食事とビール。私の仕事の話をすると、奥さんが「ハーフは優性遺伝子の塊だということをアピールすればいいのよ」と言って、自分は鹿児島、旦那さんは沖縄出身で、そのせいか、二人とも学歴はないのに、五人の子供は大阪大卒、広島大卒、島根大卒、看護大卒、インドの大学に在学中と皆高学歴なのだと教えてくれた。果たして鹿児島と沖縄でハーフといえるのかどうか疑問だったが、一応、参考にさせていただくことにした。二人はそのまま旅立ち、ほろ酔い気分で宿に帰る。

3月1日(火)

12時にチェックアウトして、昨日バックパッカー夫婦と一緒に行ったビアホールで酢豚と黒ビールをいただく。何を考えて飲んでいたのか覚えていない。たぶん何も考えていなかったのだろう。ほろ酔い気分で宿に帰り、やがてタクシーがやって来て空港へ。このミャンマー滞在が一瞬の気の迷いなのか、一生の大事の始まりなのかは、この後の展開次第。

色々ありましたが、読み返して当時と気持ちがあまり変わっていないのを再確認。ある種の日本人男性にはミャンマー人女性は向きます。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(2)

2月4日(木)

記憶も記録もなし。

思いつきでミャンマーに来たものの、コネなし金なしで俺この歳でこんなところで何やってるんだろう?感が日に日にましてきて、時々何もしたくない日が出てきました 異国のホテルの一室で何もしていないとさらにそんな思いが募ってきて悪循環。 🙄 

2月5日(金)

午前、ウィン先生と面会すべく徒歩でウィン日本語学校へ。が、途中、迷子になってしまい、15分ほど遅れて着く。大物相手になんたる失態。用件の内容はいえないが、またしてもウィン先生に速攻で否定されて凹む。そして薄々気づいていたことだが、マノーラマ僧院やウィン日本語学校に通っている生徒は、比較的経済的余裕がある層の子弟で、皆自分の将来に夢中で、日本人と結婚することなど眼中にないと教えられる。そして「ここはそんなにお金を持っていない生徒が通っているよ」と言って、オッカラパの近くにあるダマラキタという僧院を教えられる。が、ウィン先生も正確な住所までは知らなかった。

ウィン先生に会ったのはこれが最後です。一文の得にもならないのに山のものとも海のものともつかぬ私に二回も会ってくれて感謝の限り……とはいえ彼は単純な”善人”ではなく、かなりしたたかな人物だと聞いています。ミャンマーの数少ないできる男性によくいるタイプなのですが、いまいち何を考えているのかよくわからない哲学者風の方です。こういうきめ細かさが彼の成功の秘訣なんでしょうね。

2月6日(土)

マノーラマへ。この頃から5時頃に僧院へ行って暇そうにしている男の子たちや僧院の小僧と駄弁るのが日課になった。大卒の男の子たちは特権階級なのだろう、皆、ニートである(女の子たちは働いている)。この日JICAの職員の奥様であるNさんがやって来て、僧院のことを色々訊かれたと記憶。トークコーナーでは「ミャンマーは女の子ばかり頑張っている。男の子はもっと頑張りましょう」という話をしたが、爆笑されただけで終わった。

ミャンマーの若い男の子は気はいいんだけど、肝心な時に本当に頼りない。↑で駄弁っていた男の子の一人はその後重い病気になり、私は見舞いに彼が欲しがっていた日本の本を人づてに渡したのに、例のFacebookでの誹謗中傷騒動の後にあっさりと私をFacebookでアンフォローしました。ちなみに女性の友だちでそんなことをした一人もいません。みんな私を信じて応援してくれています。

2月7日(日)

午前中、ウィン先生に教えてもらったダマラキタへ。オッカラパ駅の近くにあるという情報しかなかったので、とりあえずタクシーで駅へ行く。駅に着くと、近くに僧院があり、そこにいた人たちに「Japanese language school?」と尋ねると、「違う」と言われ、タクシーの運転手に住所を告げる。再びタクシーに乗っていくと、果たして目的の僧院があった。マノーラマに比べると、生徒たちの服装がなんともみずぼらしく(が、これでもミャンマーの貧困層ではなく中間層なのだ)、一瞥、言葉を失う。が、なんとか気を取り直して、日本語を少し話す僧院長だというお坊さんに「この僧院に日本人の男性と結婚したい女性はいませんか?」と単刀直入に尋ねると、僧院長は目を剥いて驚かれた。あの顔は一生忘れないだろう。”やばい、お坊さんを怒らせた……”と青くなったが、どうやらそうではなく、二階の教室に通された。この僧院の生徒も女の子ばかりだった。やがて先生らしき妙齢の日本語堪能な女性が現れ、用件を話す。話の内容は型どおりで、さして進展もなく、なんとなく終わる。僧院長の話が終わると、やがて授業が始まり、女性が教壇に立つ。どうやら今日がクラスの始まりだったようで、皆、あいうえおから勉強していた。私は字の修正と発音を手伝った。授業が終わると、「もう来ないとは思いますが、色々ありがとうございました」と先生に挨拶した。先生は「また来てください」と凛とした声で言った。その後、マノーラマへ行った。日本の大学関係者が来ていて、生徒たちに何か説明していた。またマノーラマの世話人たるU氏から名刺をいただく。

いまだに色々お世話になっているN先生との初対面です。本当に凛とした美しい方で、まさに私が追い求めていたミャンマー人女性でした……が、当時すでに既婚。旦那さんはお医者さんで、今はお子さんが一人いらっしゃいます。「先生は素敵な男性に出会えてラッキーでしたけど、他の女性はそうじゃないんですよ」と言うと苦笑いしていました。ちなみにミャンマーは医者の80%が女性で、医学部の試験では男性に点数を上乗せしているらしいのですが、これがないと医者が全員女性になると言われています。

2月8日(火)

一波乱あった後ということで、ひねもす宿の8階のルーフで煙草を吹かしながらボッーとしていた。そのうちに、”あの先生にもう一度会わなければ”という思いが募る。「また来てください」という切実な言葉。そして――美人だったから。うん、明日会いに行こう。

 

 

2月9日(火)

”あの先生にもう一度会わなければ”と思ったものの、先生の名前も住所も分からず、それどころか僧院の住所も分からない。とりあえずまたオッカラパ駅に今度は金をケチって電車で行くことにして、中央駅へ赴く。が、待てど暮らせど電車はやって来ず、痺れを切らしてタクシーに向かうことにする。が、オッカラパ駅に着いたものの、駅近くの僧院には耳の不自由な老人しかおらず、周囲の人間に聞いてもダマラキタ僧院の場所は分からない。とりあえずタクシーを走らすも、なかなか僧院に辿り着かず、周囲を彷徨うばかり。が、やがて見覚えのある景色が広がり、その辺りをウロウロしているうちにダマラキタに着く。タクシー運転手が僧院長に何やら託すると、やがて僧院長が先生の名前と電話番語を書いたメモを持って現れ、タクシー運転手が先生に電話して、何が何やら分からないまま再びタクシーに乗り込む。しばらくするとタクシーはある建物の駐車場に止まり、そこで待っていると、やがて若い女性が現れた……が、二日前見た女性とは違う印象。よくよく話すとやはり別人で、先生が勤めている会社の同僚で、先生が外出中なので、代わりに私を迎えにきたのだという。再びタクシーに乗り込んで、その会社に行くが、そこでタクシー運転手から20000チャット請求される。目ん玉が飛び出るような金額だったが、色々助けてくれたので、素直に金を払う。会社の二階にある事務室に通され、コーヒーをご馳走になる。私を会社に連れてきた女性はワオワオさんといって、N4取得者、昨年会社の社長が所属しているライオンズクラブの招待で日本へ行き、学校で子供たちと交流し、御嶽山に登ったのだという。「私たちが登った次の日に噴火したので、びっくりしました」と言っていた。「ところで先生は結婚していますか?」と尋ねると、「しています」と即答され、ガッカリ。さらに旦那の素性を尋ねると、「お医者さんです」「若いです」「26歳(本当は28歳)」と答え、先生の年齢を尋ねると、「31歳くらい……」と答えた。「くらい」ってなんだろう? やがて先生が現れ、改めて婚活事業の話をする。先生は名前をNといって、ヤンゴン外国語大学の日本語学科で日本語を学んだ才媛で、この会社はI商事の下請けで医者が着る白衣を作っているということだった。話が終わると、丁重に礼を述べてタクシーで宿に戻る。夜は近くのチャイナタウンで行われた新年のダンスコンテストを切ない気持ちで見守る。

以来、N先生の家には度々お邪魔しています。こちらは昨年お邪魔した際にごちそうになったカレー。美味しゅうございました。ちなみに写真にはありませんが、他にお皿に山盛りになったチャーハンもありました。とても食べ切れる量ではありません。ミャンマーでは食べ切れないほど料理を出すのが礼儀とされていて、残してもOKなので、くれぐれも出された料理を全部食べないように。お腹がパンクします。

2月10日(水)

人格的に大変優れた女性とじっくり話し込んだということで、何かか吹っ切れ、ミャンマーでの婚活事業を諦め、来週、帰国する決意をする。気が重いが第二志望のベトナムでやろう。

2月11日(木)

帰国の挨拶をしようと、世話になったI氏の元を訪れるが、I氏は帰国中で23日まで帰ってこないと聞いて愕然。帰りにマノーラマに寄って写真を一枚撮ってくる。

2月12日(金)

コンサルタントのTさんが帰ってきて、「よおっ、人買い」と罵られる。

2月13日(土)

ダマラキタへ。袖すり合うも他生の縁ということで、帰国までの僅かの間、N先生の授業を手伝うことにしたのだ。ダマラキタの子たちはマノーラマの子たちに比べて身なりは貧しいが、顔は賢そうで、実際、日本語の勉強を始めたばかりなのに、あいうえおをしっかり書けていた。大学進学率が10%くらいなので、たとえ大学に行ってなくても頭は悪くないのだ。授業が終わった後、ダウンタウンに買い物に出かけるというN先生とその妹といとこのお坊さんと一緒にタクシーに乗る。妹さんはシンガポールで働いているらしく、とても可愛らしい女性だった。私はマノーラマがあるチーミインダイ駅近くでタクシーを降りる。そしてエリンクラスに来ていたJICAの職員の奥様であるNさんに思いきって話しかけ、ダマラキタに来てくれないか? と頼む。「私、そんなものに興味ないわ」と冷たくあしらわれたらどうしよう? と内心ドキドキだったが、さすがJICAの職員の奥様ということで理解があり、都合が合うときに行ってみるという回答を得た。この日は東大のMISという国際交流のサークルの学生が来ていた。宿にいるアホダラ大学の学生と違って、大変賢そうで、礼儀正しく、日本の未来にホッと一安心。トークコーナーでは、エリンクラスNO.2の実力者YKさんと一緒になり、ダマラキタの話をしたが、冷たい反応しか返ってこず、二度、ミャンマー人の階層意識を見た思いがした。宿に帰って明日バンコクへ向かうTさんとウイスキーを酌み交わす。実に色々な話をしてくれたが、仕事の話をするときは、顔つきが変わった。HISの社長とは旧知の仲らしく、「お前にもほんの少しだけ似た匂いがある」と言われた。そんな大物と比べられても困る。そして別れ際、「人食い鮫の目をしている」とも言われた。

昔気質のTさんでしたが、奥様を早くに亡くし、娘二人を男手一つで育てたそうだ。けれども上の娘さんも既に亡くなり、下の娘さんも当時末期がんで余命幾ばくもないという状態でした。おそらくその後亡くなったのでしょうう。Tさんは「俺も独身に戻る。ガハハハ」と笑っていたが、やはりどこか寂しそうでした。酔いも深まった頃、Tさんは一枚の手紙を見せてくれました。上の娘さんの友人に彼女の形見を催促する手紙でした。一読、娘に対する愛情に溢れた心が温まる内容に手紙でした。その手紙を見せ終わった後、Tさんはへへへと恥ずかしそうに笑いました。これがTさんにお会いした最後です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(2)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(1)

1月26日(火)

ヤンゴンの老舗日本語学校であるウィン日本語学校が、ホテルの近くにあることが分かったので、翻訳を頼みに出かける。が、その途中、場所が分からず迷子になり、結局、学校の職員に迎えに来てもらう。待ち合わせ場所にやって来た女の子は、白い肌をしたそれはそれは凛々しい顔だちをした綺麗な子だった。二度惚れる。学校に赴くと、ウィン先生は不在で、職員は全員若い女の子だった。私を案内してくれた女の子にFBページに打ち込む日本語の文面を渡し、見積もりを出すのに数時間かかると言われたので、少し談笑した後、一旦辞去。ホテルに戻って時間を潰していると、やがてメールが入り、拙い日本語で「翻訳には2、3日かかります。値段は20,000チャットです。どうしますか?」とあった。すぐに電話をかけ直し、紙に翻訳してもらうのではなく、ミャンマー語でFBに打ち込んでほしいと頼んだが、なぜか「駄目です」の一点張り。埒が明かないので丁度ウィン日本語学校に用事があったNさんと一緒に学校に赴き、今度は面と向かって頼んだが、やはり「駄目です」の一点張り。Nさん曰く「融通が利かないんだよ」とのこと。東南アジアではよくあることらしい。Nさんとの商談が終わったウィン先生と明日の面会の約束を取りつける。その帰り道にNさんの紹介でスーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れて翻訳を頼むが、結局、断念。が、その翻訳業の人物は私の話に興味を持ったらしく、「また来てくれ」と言われた。

久しぶりにこの私を迎えにきた子のことを思い出しましたねー 😛 凛々しい顔立ちをしていて本当にきれいだった。日本に語学留学したいとか言っていましたけど夢は叶ったのかな?ちなみに件の日本語学校はヤンゴンで一番有名な日本語学校なのですが、働いているのは全員女性でした。

1月27日(水)

朝の10時にウィン日本語学校に赴いてウィン先生と面会。スカウト作戦が没になったので、人材派遣会社の如く、日本語学校の生徒の中で日本人男性と結婚したい女性を募り、その代わり学校にいくらかコミッションを払おうと考えたのだ……が、やはりウィン先生からも(中略)難しいと指摘される。やはり駄目か……かなり凹み、「もうカンボジアかベトナムにしようかなあ」という気分になる。その夜、ヤンゴンを離れるNさんに女の子を買える店で女の子を見にいこうと誘われ、ある店に連れられていったが、どうやらその店は商売替えしたらしく、普通のビアホールになっていた。それでも女性が沢山ステージに上がってダンスをするファッションショーなるものがあったのだが、それも服を脱ぐでもなく、ラジオ体操のような健全なものだった。これは11年前に観たものとまったく同じで、スロートレインだけではなく、ここにも変わらないものがあった。翌朝、Nさんはお気に入りの宿の女の子にセクハラタッチをして、颯爽とカンボジアのプノンペンに飛んでいった。器の小さい人だったが、色々教えてもらい感謝。

このウィン先生というのは、アウンサンスーチー氏が訪日した際にその通訳を務めた人物です(京大留学経験のあるスーチー氏は実は日本語が話せると聞いたのですが、あれは嘘なのでしょうか?)。安倍総理、甘利氏、高村氏など自民党の要人たちと一緒に撮った写真をたくさん見せていただきました……とこのようにミャンマーで要人と会うのは実はそんなに難しくないんです。ミャンマーでビジネスをしようとすると「誰それと知り合いだ」という人がわんさか湧いてきますけど、話半分どころが10分の1程度にも聞いてはいけないと思います。たいてい何回か顔を合わせたことがあるだけで、相手は名前も覚えていないことが多いです 😆 

1月28日(木)

Kさんという70代の男性がやってくる。先の二人に比べればかなりの常識人。香川県善通寺市の人で、両親が坂出市の私とうどんネタで盛り上がり、実家の近くにある日の出食堂が全県的に有名な店だということを初めて知る。婚活事業の話をすると、「ちょっとタイミングが早すぎるからね」などと年長者ならではのアドバイスをいただく。夜は一緒にインドカレーを食べにいき、よもやま話に話を咲かせる。満州出身で引き揚げの記憶がかすかにあるらしく、その時の興味深い話を聞く。

1月29日(金)

気分転換にとKさんと一緒に日本人墓地へ行く。空港近くにあるのだが、タクシーをチャーターして14000チャットかかった。墓地は地元の人たちが整備していて、かなり綺麗で、杉良太郎の記念碑もあった。「インパール作戦に破れた日本兵はミャンマーの人たちにとてもお世話になったんだよ」という話はヤンゴンで会った年配の人たちからよく聞いた話だ。二人で10000チャット寄付して退散。帰りのタクシーの中で感極まったKさんは泣いていた。

ちなみにイギリス人墓地はもっと立派です。さすが戦勝国 😆

1月30日(土)1月31日(日)

両日ともマノーラマ僧院に通っていた。30日にロンジーを履いていくとエミリとクミコ(森公美子に似ていることから、私が日本人名をつけた美容師の女の子)から「カッコいい!」と褒められ、こそばゆい気持ちに。5時から始まるクラスにも参加しようとしたが、二階にある狭い図書室に圧死するほど生徒がぎゅう詰めになっているのを見て、早々に退散。二階の教室で時間を潰していると、ちびまる子ちゃんによく似た可愛らしい女の子に話しかけられた。「漢字は朝飯前ではありません」と流暢な日本語で話す彼女は驚愕の19歳で、既にN3を取得しており、将来の夢はガイドになることだという。またここにきてようやく理解したが、ここではエリンクラスという授業が5時~6時半、6時半~8時の2回行われており、その後半の授業の残り40分くらいをグループ分けして日本人1人をあてがい、会話をしながら日本語を学ぶということにしているようだった。両日もこのコーナーではエミリと眼鏡をかけた長髪の細い女の子と一緒のグループになった。エミリは日本の大学に留学したいのだが、一人っ子なので両親が反対しているのだという。私は「大学卒業後に必ずミャンマーに留学すること条件に留学の許可を貰ったらどうだ?」とアドバイス。眼鏡の子は親の希望で医学部を志望するも点数が足らず工学部の土木科に進み、今年の7月大阪にあるIT系企業に就職が決まっているのだという。彼女に「ミャンマーに来て驚いたことはなんですか?」と尋ねられたので、信仰熱心さ、渋滞のひどさ、女性が綺麗になったことと答えた。

2月1日(月)

午前中、スーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れる。なんの話かと思えば、金の話ばかりでうんざりした私は早々に退散。一日中げんなりしていた記憶。

2月2日(火)

このあたりでどこぞ大学のボランティア学生グループが宿にやって来た。が、なんとも頭が悪そうで、一瞥して不快感を催す。結構長い間滞在していたが一言も口を利かなかった。まあ、あちら側にしても、こちらはええ年こいて、バックパッカー宿に泊まっている怪しいおっさんなのだろうが。

2月3日(水)

I氏の元を訪れて、これまでのことを報告。そのI氏から実はウィン先生は先年の秋ミャンマー政府使節団が訪日した際、通訳として同行した大物だという話を聞く。なんでも一日700ドルの報酬を受け取るミャンマー随一の通訳なのだとか。この話を聞いて、早速、ウィン先生ともう一度アポを取る。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

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