旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。
1月26日(火)
ヤンゴンの老舗日本語学校であるウィン日本語学校が、ホテルの近くにあることが分かったので、翻訳を頼みに出かける。が、その途中、場所が分からず迷子になり、結局、学校の職員に迎えに来てもらう。待ち合わせ場所にやって来た女の子は、白い肌をしたそれはそれは凛々しい顔だちをした綺麗な子だった。二度惚れる。学校に赴くと、ウィン先生は不在で、職員は全員若い女の子だった。私を案内してくれた女の子にFBページに打ち込む日本語の文面を渡し、見積もりを出すのに数時間かかると言われたので、少し談笑した後、一旦辞去。ホテルに戻って時間を潰していると、やがてメールが入り、拙い日本語で「翻訳には2、3日かかります。値段は20,000チャットです。どうしますか?」とあった。すぐに電話をかけ直し、紙に翻訳してもらうのではなく、ミャンマー語でFBに打ち込んでほしいと頼んだが、なぜか「駄目です」の一点張り。埒が明かないので丁度ウィン日本語学校に用事があったNさんと一緒に学校に赴き、今度は面と向かって頼んだが、やはり「駄目です」の一点張り。Nさん曰く「融通が利かないんだよ」とのこと。東南アジアではよくあることらしい。Nさんとの商談が終わったウィン先生と明日の面会の約束を取りつける。その帰り道にNさんの紹介でスーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れて翻訳を頼むが、結局、断念。が、その翻訳業の人物は私の話に興味を持ったらしく、「また来てくれ」と言われた。
久しぶりにこの私を迎えにきた子のことを思い出しましたねー 😛 凛々しい顔立ちをしていて本当にきれいだった。日本に語学留学したいとか言っていましたけど夢は叶ったのかな?ちなみに件の日本語学校はヤンゴンで一番有名な日本語学校なのですが、働いているのは全員女性でした。
1月27日(水)
朝の10時にウィン日本語学校に赴いてウィン先生と面会。スカウト作戦が没になったので、人材派遣会社の如く、日本語学校の生徒の中で日本人男性と結婚したい女性を募り、その代わり学校にいくらかコミッションを払おうと考えたのだ……が、やはりウィン先生からも(中略)難しいと指摘される。やはり駄目か……かなり凹み、「もうカンボジアかベトナムにしようかなあ」という気分になる。その夜、ヤンゴンを離れるNさんに女の子を買える店で女の子を見にいこうと誘われ、ある店に連れられていったが、どうやらその店は商売替えしたらしく、普通のビアホールになっていた。それでも女性が沢山ステージに上がってダンスをするファッションショーなるものがあったのだが、それも服を脱ぐでもなく、ラジオ体操のような健全なものだった。これは11年前に観たものとまったく同じで、スロートレインだけではなく、ここにも変わらないものがあった。翌朝、Nさんはお気に入りの宿の女の子にセクハラタッチをして、颯爽とカンボジアのプノンペンに飛んでいった。器の小さい人だったが、色々教えてもらい感謝。
このウィン先生というのは、アウンサンスーチー氏が訪日した際にその通訳を務めた人物です(京大留学経験のあるスーチー氏は実は日本語が話せると聞いたのですが、あれは嘘なのでしょうか?)。安倍総理、甘利氏、高村氏など自民党の要人たちと一緒に撮った写真をたくさん見せていただきました……とこのようにミャンマーで要人と会うのは実はそんなに難しくないんです。ミャンマーでビジネスをしようとすると「誰それと知り合いだ」という人がわんさか湧いてきますけど、話半分どころが10分の1程度にも聞いてはいけないと思います。たいてい何回か顔を合わせたことがあるだけで、相手は名前も覚えていないことが多いです 😆
1月28日(木)
Kさんという70代の男性がやってくる。先の二人に比べればかなりの常識人。香川県善通寺市の人で、両親が坂出市の私とうどんネタで盛り上がり、実家の近くにある日の出食堂が全県的に有名な店だということを初めて知る。婚活事業の話をすると、「ちょっとタイミングが早すぎるからね」などと年長者ならではのアドバイスをいただく。夜は一緒にインドカレーを食べにいき、よもやま話に話を咲かせる。満州出身で引き揚げの記憶がかすかにあるらしく、その時の興味深い話を聞く。
1月29日(金)
気分転換にとKさんと一緒に日本人墓地へ行く。空港近くにあるのだが、タクシーをチャーターして14000チャットかかった。墓地は地元の人たちが整備していて、かなり綺麗で、杉良太郎の記念碑もあった。「インパール作戦に破れた日本兵はミャンマーの人たちにとてもお世話になったんだよ」という話はヤンゴンで会った年配の人たちからよく聞いた話だ。二人で10000チャット寄付して退散。帰りのタクシーの中で感極まったKさんは泣いていた。
ちなみにイギリス人墓地はもっと立派です。さすが戦勝国 😆
1月30日(土)1月31日(日)
両日ともマノーラマ僧院に通っていた。30日にロンジーを履いていくとエミリとクミコ(森公美子に似ていることから、私が日本人名をつけた美容師の女の子)から「カッコいい!」と褒められ、こそばゆい気持ちに。5時から始まるクラスにも参加しようとしたが、二階にある狭い図書室に圧死するほど生徒がぎゅう詰めになっているのを見て、早々に退散。二階の教室で時間を潰していると、ちびまる子ちゃんによく似た可愛らしい女の子に話しかけられた。「漢字は朝飯前ではありません」と流暢な日本語で話す彼女は驚愕の19歳で、既にN3を取得しており、将来の夢はガイドになることだという。またここにきてようやく理解したが、ここではエリンクラスという授業が5時~6時半、6時半~8時の2回行われており、その後半の授業の残り40分くらいをグループ分けして日本人1人をあてがい、会話をしながら日本語を学ぶということにしているようだった。両日もこのコーナーではエミリと眼鏡をかけた長髪の細い女の子と一緒のグループになった。エミリは日本の大学に留学したいのだが、一人っ子なので両親が反対しているのだという。私は「大学卒業後に必ずミャンマーに留学すること条件に留学の許可を貰ったらどうだ?」とアドバイス。眼鏡の子は親の希望で医学部を志望するも点数が足らず工学部の土木科に進み、今年の7月大阪にあるIT系企業に就職が決まっているのだという。彼女に「ミャンマーに来て驚いたことはなんですか?」と尋ねられたので、信仰熱心さ、渋滞のひどさ、女性が綺麗になったことと答えた。
2月1日(月)
午前中、スーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れる。なんの話かと思えば、金の話ばかりでうんざりした私は早々に退散。一日中げんなりしていた記憶。
2月2日(火)
このあたりでどこぞ大学のボランティア学生グループが宿にやって来た。が、なんとも頭が悪そうで、一瞥して不快感を催す。結構長い間滞在していたが一言も口を利かなかった。まあ、あちら側にしても、こちらはええ年こいて、バックパッカー宿に泊まっている怪しいおっさんなのだろうが。
2月3日(水)
I氏の元を訪れて、これまでのことを報告。そのI氏から実はウィン先生は先年の秋ミャンマー政府使節団が訪日した際、通訳として同行した大物だという話を聞く。なんでも一日700ドルの報酬を受け取るミャンマー随一の通訳なのだとか。この話を聞いて、早速、ウィン先生ともう一度アポを取る。
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