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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(4)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

6月1日(水)

午前中、ダウンタウンを散策して時間を潰して、午後、Tとの待ち合わせ場所であるHledan Centerへ電車で向かう。お金の節約に頭が回るようになったということは、若干心に余裕が出てきたということだろう。かなり早く着いたので、ドーナツショップでブログをまとめる。Tは少し遅れてやって来て、二人で近くの洒落たレストランへ。この日TはMPTと提携している電通主催のセミナーに出席したらしい(彼女は「デンスー」としか発音できないが)。ここには書けないが色々と細部を詰める。途中、またいとこの女性がやってくる。また近くにいたのか……と思ったが、ああこれは未婚の女性が男性と二人きりにならないよう配慮しているのだと気づく。街中でもカップル+女性の女友達という三人組でデートしている人たちをよく見かける。三人で食事した後、タクシーでホテルへ帰る。また彼女の写真を撮るのを忘れたな。

結局、彼女はこの話降りましたが、いまでもFacebookの友だちです。どうやら彼女はミャンマーエリートのようでヨーロッパとか東南アジアの他の国に頻繁に出張しておりますね。

6月2日(木)

昨日で今回のミッションが終了したということで、便意も食欲も睡眠欲もなく、’透明な存在’になって、ひねもすボッーとしている。わかりやすすぎるだろ、自分の身体。

6月3日(金)

このままだと今日も無為に過ごすだけの気がしたので、「インセイン地区に日本語を教えている僧院がある」というY女史の言葉を頼りにスロートレインでインセイン駅に向かう。

 

これが乗車駅のピイ・ロード駅。「スタンド・バイ・ミー」ごっこをしたいなら、うってつけだ。

 

 

沿線には貧困層のバラックが軒を並べている。再開発とかになったら容赦なく追い出されるんだろうねえ。

 

 

インセイン駅に着きました!……が、駅の売店の人もタクシー運転手も「そんな僧院知らない」と首を振るので、仕方なく駅周辺を散策。

するとヤンゴン技術大学に辿り着く。キャンパスをウロウロしていると、ある建物から讃美歌が聞こえてきたので、中に入って、男子学生に僧院のことを尋ねる。が、彼らも「知らない」と首を振るばかり。ここで気力が萎えた私は出直すことにして、バスでダウンタウンに帰る。

6月4日(土)

朝食を食べた後、バスでダマラキタへ。一番前の席に座って車内の写真を一枚撮ると、突然、ミャンマー人にしては珍しく顔に化粧を施した小柄な若い女性が私の隣に座り、「あなた今写真を撮ったわね? 私は警察官なんだけれど、バスの車内で写真を撮るには税金を払わなければいけないのよ」と言って、お金を請求してきた。旧式の詐欺だなと即座に理解した私は彼女に警察官の身分証明書を見せろと迫り、その間に撮った写真を消す。困った顔になった彼女は突然車窓から外の駐車中の車を指差し始め、「私はこうやって違法駐車の車をチェックしているの!」と言い出した。その様子がなんともいじらしく思わず微苦笑。その後、彼女は「私の恋人」と言って日本人か韓国人のおっさんとホテルの一室でキスしている写真を見せてきて、「私22歳、彼は19歳」と日本語でのたまった。どう見ても50歳以上にしか見えないのだが……それにしても愛人稼業に首を突っ込んでいるとはいえ、その表情はあどけなく、態度には嫌味がなく、この子に引っかかる男はいるだろうなあと思った。僧院に着いて、いつものように絶賛遅刻中のN先生を待っていると、突然、彼女から電話が入り、スーレー・パヤ近くで結婚式に出席しているのだが、式が伸びて、僧院に来るのが遅れるという連絡が入る。そうこうしているうちに女性教師の一人Nさんとその子供2人がやってきて、Nさんと相談の末、今日は聴解を中心に授業を行うことになる。子供2人が大変活躍した。またミャンマーの日本語教育は暗記中心で、まったく頭を動かさないので、練習問題は教師役が正解と解説を述べる前に生徒にやらせるとにした。授業の終わり頃、N先生が慌ただしくやってきて、教壇に立つ。いや、忙しい人だ。この人にはまだ子供を産むというミッションが残っているのだが、よしんば彼女が出産・育児という事態になった場合、この僧院を切り盛りしていけるのかと不安になる。後を継げるとしたら……Wさんだな。またしても頼りになるのは女性だ。帰り際、宿の女の子たちにロールケーキを二つ買って帰り、いつもは不愛想なマネージャーに相好を崩して礼を言われる。

6月5日(日)

夜中起き出して、8階のルーフのハンモックに寝転んで煙草を吹かしていると、背の高い若い白人がやって来て、外にアザーンが流れる中、床にタオルを敷いてお祈りをし始めた。ムスリムである。挨拶も返さず、思いつめた様子で不気味だった。この時分、ムスリムに改宗した若い白人男性が何しに仏教国のミャンマーにやって来たのだろうか? 朝、チェックアウトする際にマネージャーに報告したが、「何も心配ないですよ」という返事。そうだったらよいのだが……その後、今回は1000チャットのミニバスでダマラキタへ。行き際、自転車の後部座席に座ったWさんと邂逅。やたら綺麗な服を着ていて、結婚式の帰りなのだという。Wさんの日本語はややぞんざいで、男っぽく、話していて気持ちがいい。この日はN先生が珍しく早くやって来て、つつがなく授業を行った。授業が終わった後、少し話し込む。僧院で授業がきちんと行われているという評判が広がっていて、秋に開講するBasicクラスでは生徒の増加が見込まれること、中国系ミャンマー人が中国語とミャンマー語を話すので中国語を学んでもあまり就職に役立たず、結果、日本語と韓国語の人気が高まっていること、ティラワ経済特区における日本企業の進出がいよいよ本格化するため日本語学習者には就職のチャンスが広がっていること、途中、N3受験者を教えている40歳独身男性も加わって、みんな字が下手になっていることなどなど。話が終わると、N先生は「すぐに戻ってくる」と言って、一旦姿を消した。その間、件の男性教師に「なぜ独身なんだ?」と尋ねると、「自分でも分からない……」と言って苦笑した。そうだよねえ。が、真顔に戻ると、彼は突然「ビール飲みに行きませんか?」と言った。びっくりして、「いや、もうすぐ空港へ行かないといけないから……」と断ったが、すると彼は日本のビールはアサヒが美味いと語り始めた。目が座った感じで、どうやらアル中のようだ。やれやれ。4時頃、NSS先生が旦那のバイクに乗って戻ってきて、餞別に綺麗な手編みの掛け軸をプレゼントされた。 ということで今回も大いなる成果と課題を残したミャンマー訪問だった。

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(3)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

5月25日(水)

午前中にKとTに大事なメールを出した後、力尽きて夕方まで昼寝。起きた後、昨日から宿に泊まっている長渕剛似のやはり福岡出身だったYさんとBBQストリートへ。私が婚活事業をしたいと言うと、「ほう」という顔をして、人妻、シングルマザー、女子大生、タイ人、タイ人娼婦、韓国人などこれまでの自分の女性遍歴を披露してくれた(ここに書けない話も沢山)。所謂、リア充である。ミャンマー人との比較でタイ人女性のことを尋ねると、基本、日本人よりも貞操観念が強く、夫を立てる気風の持主だが、外国人に毒されてアバズレも多く、当たり外れが激しいという回答を得た。現在のところミャンマーにはバンコクのタニヤのような歓楽街もなく、擦れた感じの女の子でもノースリーブを着ておらず、酒場で男女が飲んでいる姿もあまり見かけないが、近い将来タイみたいになってしまうのだろうか? 二人でしこたま飲んで、門限の11時を少し過ぎて宿に帰る。

基本、日本人男性のタイ人女性話はあてになりません。タイには何をして暮らしているかも判然としない不良日本人が多く、彼らが下層や水商売の女性と交際して、暇なのかその様子をブログなどに綴っているのでネット上ではすこぶる評判が悪いですが、あたとりまえですが常識的な人が一番多いです。

5月26日(木)

二人からメールの返事がなく、身動きが取れないので、たまには観光をしようと、モーターボートでヤンゴン川の向こう岸に渡る。

川の向こうにあったのはヤンゴンの喧騒とは別世界の貧民窟。住んでいるのはインド人だった。ダマラキタの生徒が「金がない」といっても、ミャンマーではまだまだ恵まれているほうなのだと実感。帰りのボートで一緒だったインド人に「外国人はフェリーに乗るんだ。ボートに乗るなんてクレイジーだよ」と言われる。夜、7階の食堂でYさんと駄弁る。YさんにSYNやKTTやMMAやSRやN先生の妹など私のお気に入りのミャンマー人の女友だちの写真を見せると、「日本人に似ている」「すっぴんでこのレベルとは末恐ろしい」「童顔」という感想を得た。「外国人の素人女にここまで入れ込んでいる日本人男性は初めて見た」というのがYさんの私評。光栄至極。

当時は知らなかったのですが、ヤンゴン川の向こう岸はダラ地区と呼ばれる最貧困地区でした。あまり一人ではウロウロしないように。

5月27日(金)

休憩。朝、Yさんを送りだした後、ボーヂョー・アウンサウン・マーケットでシャツとロンジーを買う。その後は何をしていたか記憶なし。

5月28日(土)

ダマラキタへ。いつものように昼食をご馳走になっている間、僧院長からヘイグォというミャンマー名を頂く。ミャンマーでの通名はボノにしようかと思っていたが、これは無碍にできないだろう。授業が始まる1時10分前になってもN先生は来ず(いつものことだが)、生徒たちも3人ほどしか集まらず、果たして今日は授業があるのか訝しく思っていたが、やがてポツリポツリと生徒が集まり始め、駐在員の奥様でボランティアで先生をしてくださっている二人の日本人女性(とその子供)もやって来た。そのうちWさんが姿を現し、「今日は先生はお寺の仕事で忙しいので、来れません」と言って、代わりに教壇に立つ。Wさんの教師ぶりはN先生を彷彿させる堂々たるもので、日本人女性二人も教え始めて3ヶ月以上になるからか、こなれた感じだった。私要らないな(笑)。

その後、夕方五時頃、久しぶりにマノーラマ僧院へ。僧院に行くまでに乗ったタクシーはやたら裏道を回っていたが、結局、一時間以上もかかった。僧院に着くと、ボランティアの小僧たちが、前よりも上手くなった日本語で挨拶してくれた。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」である。教室には中国製のエアコンが入っており、皆、スピーチの練習をしていた……が、それにしても超絶アウエー感。知人がおらず、私に気づいても女の子たちは誰も挨拶してくれない。そんな中でFBでやりとりしたことがあるだけのNさんだけが会釈してくれて、とても嬉しかった。また男の子たちも私に気づくと挨拶してくれた。なぜか私はミャンマーの男性とは労せずして友好な関係を築ける。女性も可愛いが、男性もイケメンが多いので、ホモセクシャルだったら、ここはパラダイスだろう。授業の終わりのトークコーナーでは、昨年のスピーチコンテスト優勝者であるYOさんと一緒のグループになって、日本から持ってきた「完全自殺マニュアル」の解説をする。果たしてミャンマー人に受け容れられるか半信半疑だったが、思いの外受けたようで満足。またエリンクラスN0.2の実力者YKさんのスピーチコンテストの原稿の手直しを少し手伝う。内容はスチュワーデスの試験に不合格になって、自分を見つめ直したというもので、なかなか感動的だった。上手く読めたら優勝争いに絡めるのではないだろうか? 「是非、優勝して日本に来てください」とYKさんを激励して、今は二本の平行線でもいつか交わることを願いつつ、教室を後にする。宿に帰ると、一昨日出て行ったはずのYさんがいた。チケットトラブルでヤンゴンに舞い戻ったのだという。少し二人で駄弁って就寝。

マノーラマには定期的に通っている日本人の方々がいるのですが、どうやら彼らに好かれていないようでした :lol:世の中どこへ行っても村社会です。

5月29日(日)

ダマラキタへ。片道6000チャットのタクシー代がいい加減堪えてきたので、今日は片道200チャットのバスで行ったのだが、思いの外すんなり行けた。これでかなりお金をセーブできそうだ。いつもどおりN先生は20分以上遅れて、授業が始まる……が、授業中も頻繁に先生の携帯に電話がかかってきたり、途中、誰かがやってきて話し込んだりしていて、その間、私が代わりに教壇に立って授業をした。特に二月から真面目に教室に通っているものの、恥ずかしがって頑として日本語を話そうとせず、上達が遅い女の子二人を集中攻撃。既にして一人には完全に私に愛想を尽かしていて、私の顔を見るとすねた顔をする(笑)。すまないね、君たちのためなんだ……が、そんな彼女の年齢が29歳だと知ってびっくりする。やることなすことガキ臭いので、てっきり20代前半だと思っていたのに。こんな高学歴とも思えない子でも独身でいるのかとミャンマーの晩婚化の進行を目の当たりにする思いがした。授業が終わると、N先生は「便秘に気をつけて」という言葉を残して、そそくさと帰っていった。宿に帰ってパソコンを開けると、ようやくKとTSからメールが返ってきていて、謹んで返事を書く。その後、Yさんと駄弁る。Yさんは旅先で出会ったミャンマー人の人妻にご執心らしく、「Hさんがミャンマーにこだわるのもわかる気がする」という言葉をいただく。タイ人はやはりタイ人だけれど、ミャンマー人にはそういう外国人に対する違和感が少ないのだという。そうだろうね。だから私は色々辛い思いをしてでも、ここにいる。他にも色々アドバイスをいただいて、就寝。

ヤンゴンはすごい渋滞なのでタクシーに乗る意味があまりないです。バスは格安なのでおすすめです。

5月30日(月)

朝、今度こそ旅立つYさんを送りだした後、Tとアポを取る。これが今回の視察の最後の仕事になるだろう。マンダレーには行けそうもないな。二日間連続で教壇に立ったので身体はフラフラ。ダウンタウンを散策した後、昼寝後、就寝。

5月31日(火)

案の定、TSから返事がないので、やんわりと催促のメール。ミャンマー人は仕事が遅いのだが、かといって30歳を超えた女性のプライドを傷つけるわけにもいかないので、このへんは神経のつかいどころだ。昼は勇気を出して屋台で飯を食う。前回は完全アウトだったが、どうやら火を通したものであれば、胃腸が堪えられるようになったようだ。これで食事のバリエーションも増えるし、お金も節約できる。一休憩した後、近くのアドミニストレーション・オフィスへ。そこで一番偉い(でも若い)男性がほんの少しだけ英語を話せて、私の話を理解し、「イミグレへ行け」と言われ、初老のなぜか「日本」と「緬甸(ミャンマー)」と漢字で書ける男性(写真)に連れて行ってもらう。が、そのイミグレの女性がまったく私の話を理解せず、早々に引き上げる。うーん、困った。夜も屋台の焼き鳥とインスタントラーメン。宿に帰ってメールを開けると、TSから返事が来ていた。明日の午後6時Hledan Centerで待ち合わせすることになる。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(4)

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

5月18日(水)

午前中、ホテルのロビーでTさんと話し込む。ヤンゴンからマンダレーへ行く列車でボラれたので、帰国したらミャンマー政府に厳重に抗議しにいくと騒いでいた。「大金持ちなのに小さな人間やなあ」と思ったが、色々話を聞いていると、毎年社員を10人ほど東南アジア一ヶ月旅行に連れ出したり、外国人に日本人と同じ給料を払ったり(しかも住み込みだから食住はタダ)、宿の住み込みの女の子に毎日3ドルほどのお菓子を買ってきたり、いいところもいっぱいある人だった。「彼女たちの月給はどれくらいなんや? 100ドルくらいか?」と尋ねられたので、「たぶん30ドルくらい」と答えると絶句していた。彼女たちは愚痴一つ零さず毎日早朝から深夜まで働いているが、愚痴も出ないというのは、それだけ世間を知らないということである。恐らく学校も小学校しか出ていないだろう――が、そんな彼女たちを出稼ぎなり、嫁さんなり、日本に連れていこうとしても、家族や友だちから離れては生きていけないので無理なのである。午後、再び例の弁護士ビルに向かう。まず初老の弁護士二人に相談。二人とも私の話を聞くと苦笑し、首を捻りながら、「まあ、大丈夫なんじゃないの」と答える。次に訪れたのは先の二人に比べて大きくて綺麗な事務所に勤める美人女性弁護士……が、彼女は私の英語をまったく理解せず、通訳を連れて出直してこいといわれる。かなり優秀そうな感じでピンと来たので、後日、出直すことに。宿に帰って香港人のヘンリー・チャンと談笑。途中で大阪の社長も加わって、日本語と英語のチャンポンで訳の分からないことになる。ヘンリーとFBで友達になって、彼のページを見てみると、「原來日本周文健係做婚姻介紹,等我以為係殺手或特務之類,真係令人失望」と書いてあり、翻訳を読むと、「一週間の日本オリジナルの男は結婚は金が導入され, 私の考えはキラー又は代理人は何か, 本当にがっかりだ」とあった。さては漢字が読めないと思って俺の悪口を書いたなと思って問い質すと、「君は香港映画の『City Hunter』に似ているという意味だ」という返事が返ってきた。あれは日本のアニメだっての。

件の女の子たちは農村部から出稼ぎです。私が貧困層の女性との結婚は止めておけと繰り返し述べているのは、彼女たちの交流から来るものです。たしかに愛おしい子たちなのですが、教育水準の低すぎてミャンマー語の読み書きすらできず、視野も狭く、融通もまったく利きません。日本に連れてきて配偶者とするのは非常に難しいでしょう。

5月19日(木)

恐らく昨晩の魚フライの油のせいで、夜中に持病の胃炎が発病して、ひとしきり吐く。Tさんはわさびのフリカケと「ファシズムの臭いがするでえ」というセリフを残して日本に帰っていった。私は通訳探しに出かける。前回会ったコンサルタントのTさんの「このへんに日本語が得意な奴がおる」という言葉を頼りに、宿の近くを探索すると、ミャンマー・コンパス・ツアーとカタカナで書いている看板を発見。中に入ると日本語堪能な中年男に迎えられ、事情を話して通訳を頼むが、本人は多忙で時間がなく、友達に連絡してみるといわれた。宿の8階のルーフで時間を潰していると、突然、不穏な空模様になり、大粒の雨が降って来た。雨季に入ったのだ。昼食から帰ってきてメールを開けると、旅行代理店の男性からメールが入っていて、皆忙しくて適当な人物が見つからないという返事。仕方がないのでネットでヤンゴン在住のミャンマー人日本語通訳を探してみると、結構料金が高く、これならばこの案件に最適な弁護士を見つけ、然る後、通訳を見つけたほうがいいと判断。マンダレー行は再来週に伸びそうだ。夜はヘンリーと一緒にBBQストリートへ。彼は映画の脚本を書いていたのだが、仕事を辞めて、旅に出たそうだ。タイのお寺で一ヶ月修行して仏教徒になり、酒も煙草も止めていた。そんな彼は私の婚活事業に興味を持ち、副業として俺も香港でそれをやる、俺の女友達を日本人男性に紹介しようと言ってきた。なんでも現在の香港は政治情勢が不穏で、逃げ出したいと思っている人たちが沢山いるらしい……が、それにしても彼も私の英語を理解せず、意思の疎通に苦労した。そんなに発音が悪いとは思わないのだが。

この三年後香港は本当に大変なことになりました。

5月20日(金)

完全休養。ミャンマーでは無理にでも休まないと体調崩すからねえ。午前中はボーヂョー・アウンサウン・マーケットを冷やかして、コットンのシャツを買う。9500チャット。それにしてもミャンマーの女性の服は種類も豊富でファッショナブルなのに、男性の服は地味だ。ホテルに帰る途中、スコールに遭う。ミャンマーの雨季は晴れ時々台風という感じで、道路は完全に洪水状態。不覚にも傘を忘れた私はずぶ濡れになってホテルに戻る。午後は何をしていたか覚えていない……夜、ヘンリーとスーレー・パヤー近くのビアホールで飲む。副業として婚活事業に乗り出すことに決めたということで、禁欲を解いたのか、ヘンリーは煙草も酒も嗜んでいた。婚活事業に関してはかなり本気らしく、根掘り葉掘り聞いてきた。中国人のこういう現金なところは本当に好きだ。また彼は「インファナル・アフェア」でもマフィアのボス役で出演していた香港の有名俳優エリック・ツアンと一緒に撮った写真を見せてくれた(写真左の身体が切れているのがヘンリー)。芸能界とコネがあるということは女優並みの美人を紹介してくれるのだろうか? 二人で飲んだ後、宿に帰って寝る……が、真夜中に吐き気を催してトイレに駆け込み、ひとしきり吐く。食べ物が当たった気配もないので、恐らく季節の変わり目に身体がついていかないのだろう。

もちろん、香港人の女性紹介は酒の席だけの話に終わりました 😆 香港も出生率が1.12で、未婚率も日本以上に高いと思われますが、香港人男性を選ばなかった女性が日本人男性を選ぶとも思えず。これまた日本よりも出生率が低い韓国人女性もしかりです。

5月21日(土)

朝からだるく、朝食はマンゴだけですます。10時半頃、今日の夕方にバガンに発つヘンリーと別れ、ダマラキタへ。例の上達の早い女の子が先に来ていて自習しており、その子曰く「今日はN先生は来ません。先生は仕事が忙しいです」とのこと。日本語を勉強し始めてたった三ヶ月でここまで喋れれば立派なものだ。ということでこの日は普段同じ教室でやっている10人ほどの他のクラスに付き合う。7月3日にN5を受ける女の子が2人いて、なかなかできがよく、特にマンダレー外国語大学出身の女の子は長文でもスラスラ読めて、N4も行けるのではないかという勢い。日本人と話す機会がないので、なかなか会話が上達しないのがミャンマー人日本語学習者共通の悩みだ。今日は停電がひどく、途中、窓際に場所を変えて授業を続ける。5時頃、僧院を辞去してホテルに帰るが、明日会うはずのTSと電話が繋がらない。バンコク出張中と聞いていたが、ひょっとしてまだタイにいるのだろうか?……と思っていたら案の定Skypeに彼女からその旨のメッセが入っており、帰国次第電話するとあった。ホッとしてホテルの外で煙草を吸っていると、隣のコンドミニアムに住んでいる翁と顔を合わせる。時々会釈する仲なのだが、この時、突然、日本語で話しかけられてびっくりした。恐らく日本占領時代に日本語を習ったのだろう。歴史的感動を覚えながら、体調不良に抗えず、大事なTSの電話を待たずして就寝。

5月22日(日)

引き続きだるい。朝、TSと電話が繋って会う約束をするが、彼女は電話の切り際に「see you, see you」とながやりに言って、なんとも面倒臭そうな様子。最悪な一日になる悪寒を催しながらダマラキタへ。いつものように僧院長が昼食を用意してくれたが、体調が悪く、半分以上残してしまう。食事を残してもいい文化圏らしいが、日本人の私はいつまで経ってもこれに慣れない。時間にルーズなN先生はいつものように20分以上遅刻。その間、8歳~21歳までお坊さんをやっていてその後俗世に戻ったN2を所得した青年と同じくN2を取得してヤンゴンプレスで働いている青年と駄弁る。結構、色々な人がこの僧院に関わっているのだ。授業ではいつものように聴解を手伝ったが、途中、N先生の目の前でロンジーを結び直していると、先生は心底げんなりした顔をして、「先生(私のこと)、しっかり結んでください」と言った。正直、これくらいのことでそんな顔しないでくれ、と思うが、ミャンマー人女性の貞操観念の強さを見る思いだった。僧院の奥のほうで人知れずやっていた今度N3を受験するクラスにも顔を出す。さすがN3受験者の出来はよく、「何か質問はありませんか?」と尋ねると、「今、先生から習ったばかりなので、何もありません」というキツイ言葉が返ってきた。そこでN先生と同じ会社で働いているWさん(20代前半・既婚・ダゴン大学卒)と再会。毎週、このクラスに顔を出しているらしいが、今の今まで気づかなかった。横で授業を見ていたヤンゴンプレスの記者が「Wさん、あなたのことを話したい」とクスクス笑って様子が可笑しいので、授業が終わった後、Wさんにその点を問い質すと、どうやら私のことをあちこちで話しているらしく、僧院関係者は皆私のことを知っているのだという。僧院の女生徒たちが警戒するといけないから黙っていたというのに、なんということだ(微苦笑)。Wさん曰く「日本で働きたいと思っている人は沢山いるが、日本人と結婚したいと思っている人はあまりいない。みんなびっくりしている」とのこと。その後、タクシーでTSとの待ち合わせ場所であるThamine City Martへ。TSはそ美人ではないが、N先生と同じヤンゴン外国語大学出身のとても快活な女性だった。カフェでジュースを飲みながら相談。やはり彼女も私の英語を解さず、どうやらミャンマー人と日本人の英語は相性が悪いようだ。なんで私の話に興味を持ったのだ? と尋ねると、「周囲が未婚女性ばかりだから」という答えが返ってきて、彼女もまずはミャンマー人同士の婚活サービスを始めるべきとアドバイスしてきた。途中、彼女のいとこの女性も加わったが、体調不良の私は折を見て辞去。帰りに乗ったタクシーの運転手は日本と韓国に出稼ぎにいった経験があるらしく、日本をべた誉めして、韓国を貶していた。降り際に名前と電話番号の入ったメモを貰う。

私は反韓ではないのですが、ミャンマーでも韓国人の評判は非常に悪いです。傲慢、粗暴、狡猾……正直、東南アジアの”親日”というのは中国人・韓国人・日本人と付き合った結果、日本人が一番マシという消去法によるものです。このへんもオーバーに言う人はあまり信用しないように。

5月23日(月)

ついに吐き気だけでなく下痢も来てしまった。午前中はブログをまとめる。午後、TSから約束の資料が送られてきたが、そんなものを読む気力もなく、早々に就寝。

5月24日(火)

前ミャンマーに来た時に薬局で買った薬を飲んだら下痢が治った。早速、TSが送ってきた資料を開けてみると、これがミャンマー投資法の英文。法律の条文そのまま読めってそりゃないだろう……と思ったが、ミャンマーでは特権階級はいざしらず、高学歴者レベルでも一事が万事この調子なのだと了解。結局、その資料は捨て、日本から持ってきた資料を一日じっくり読み込む。

第三回ミャンマー視察(2017年2~3月)(3)

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第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

5月11日(水)

藤が丘駅から中部国際空港へ。今回はベトナム航空だったが、終始、ひどく揺れて居心地悪かった。天候のせいなのか、それとも機体のせいなのか? 途中、トランジットで立ち寄ったハノイでじっくりベトナム人を観察。11年ぶりの生で見る現地のベトナム人だったが、中国の影響下にあるからか、やはり活力に満ちている。ミャンマーも教育水準の低い人間はそんな感じなのだけれど、なぜか高学歴の男性には優男が多い。女性はどうだろうか? 少なくとも外見はミャンマー人よりも外国人感が強いような気がするが、これは贔屓の引き倒しかもしれない。ヤンゴン空港に着いた瞬間、もわっとした空気に包まれる。宿は引き続きホワイトハウスホテル。ムスコが迎えてくれたが、通された部屋は窓も換気口もない密室で、仕方なく前回はホテルの経済的負担を少しでも軽くするために一度も電源を入れなかったクーラーを入れる。三菱電機の製品。荷物を置いた後、前回、バックパッカー夫婦に教えてもらったバーで黒ビールを二杯飲む。ほろ酔い気分で早々に就寝。

顔はミャンマー人のほうが日本人に近く、文化はベトナム人のほうが日本人に近いと今では思っています。

5月12日(木)

早朝に目が覚める。煙草が切れてたので、近くの雑貨屋に買いに行くが、ルビー一箱900チャット取られる。コンビニで買えば600チャットなのにこれはボリ過ぎではないか?(※後で知ったが、あくまでもこれは例外で、ヤンゴンでは煙草は雑貨屋で買ったほうが、コンビニやスーパーで買うよりも安い)。朝食を食べた後、連絡を寄こさなくなったKに電話をかけるが、何回かけても繋がらず「電源が入っていない」というアナウンスが流れるのみ。その後FBで知りあったマンダレーのTに電話をかけたが、こちらは繋がったから、ひょっとして着信拒否されているのではなかろうか? その後、USB式高速インターネットなるものを手に入れるために、近くのKMDコンピュータースクールを訪れるが、店員の説明が要領を得ず、一旦ホテルに戻ってパソコンを持って出直したところ、なんとか意思の疎通に成功し、目的のものをゲットする。今日はホテルのwifiの調子がよく、これに乗じて前回の視察の日記をまとめにかかる。が、その時、KのFBの友達に彼女の消息を尋ねることを思い立ち、メッセンジャーでメッセージを送ろうとしたのだが、その最中、なぜかFBのアカウントが一時的にロックされる。運営部の説明によると、誰かが私が偽名を使って利用していると通報したらしいが、そんなことしていないし、仮にしていても、FBで偽名を使っている人間は腐るほどいるのだから、通報するというのもおかしな話だ。一体誰の仕業だ? と訝りつつ、アカウントの復旧を試みるも、結局、断念。近くの中華街に夕食を食べにいって、注文した回鍋肉が出てくるのを待っている間、可愛い可愛いSに電話。メッセンジャーが使えなくなったことにかこつけて、マノーラマ僧院のエリンクラスの授業の予定を聞くことを口実に、ただ彼女と話がしたくて電話をしたのだ。「ちょっと待ってね」という若干たどたどしい日本語が可愛らしく、17歳の美少女との短い会話を存分に楽しむ。まさにおっさん冥利に尽きる。

当時、Facebookを使い始めたばかりだったので、まだ使い方がわからなかったのです。ちなみにミャンマーはインフレ率が高く、件のタバコは昨年秋の段階で1200ksしました。なんと二倍になっていますね。あと写真の回鍋肉は大好物だったのですが、現在でパイナップルを入れるようになって味が変わってしまいました。残念です。

5月13日(金)

夜中に起きて、ひょっとしてKは警察官ではないのか? という疑念が脳裏を過る。ネピドーで働いているというのだから、恐らく身分は公務員だろう。そしてビジネスパートナーを装って私に近づき、職権で以て私のFBアカウントを停止させたのだ……が、それならば途中で連絡を絶つのもおかしな話。どうせならば私と会って根掘り葉掘り私の話を聞き出し、いよいよ婚活事業に乗り出す段になって、私を逮捕すればよいではないか。それに彼女の容貌はどう見ても警察官のそれではなく、彼女がしてきた質問も国際結婚一般に関するもので、私の素性を聞き出す感じではなかった。やはり年下の女性を交えたことによる嫉妬だろうか? それにしても私のFBのアカウントを停止にかかりにくるとは、その心の暗さにうすら寒い気分になる。あんな賢そうな人がこんな真似をするのか……が、朝起きて朝食を食べ終わってパソコンを開くと、既にしてFBアカウントは復活していた。日本語能力試験の問題例をコピーして、ムスコからミャンマーのアンドロイドユーザーはmobo marketというウェブサイトでアプリをダウンロードすると聞いたので、Zoo Stationのリンク先を変える。あまりにも暑いのでタナカを買ってきて塗るが、いまいちミャンマー人のように格好良くとはいかなかった。部屋でパソコンを弄っているとKが久しぶりにログインしていた。メッセンジャーに何か書き込んだので読んでみると、仕事が忙しくて返事ができなかった、明日か明後日しか暇がないのでいずれかの日に会おうとのこと。怪しいと思ったが、明後日会うことにする。再度電話をかけてみたが繋がらない。仕方がないのでメッセンジャーの電話機能を使うと、やっと繋がったが、思いの外テンションの低い声だった。まあ英語だからかもしれないが、とにかく事態は急転直下、日曜日にKとシャングリラホテルで会うことになった。さらに近々実習生として日本に行く予定の可愛い可愛いKTTからメッセが入り、日本での緊急連絡先として私の住所・電話番号・メールアドレスを教えたことについて礼を言われる。24歳の女性が単身日本に渡るって本人も家族も不安だよねえ。実習生制度については悪い話をよく聞くので私も心配。

5月14日(土)

朝食を食べ、顔と手にタナカをべたべた塗った後、お土産を抱えてダマラキタ僧院を訪れる。相変わらずの渋滞で遅刻しないか冷や冷やしたが、なんとか約束の12時前に着く。見覚えのある子(写真)がかなり日本語を話せるようになっており、「ヤマモトさん!」と名前を間違えて挨拶してきて、しばらく談笑。僧院長も笑顔で迎えてくれる……が、教室の顔ぶれを見て愕然。人数は前と同じ40人くらいだったが、知っている顔は片手ほどしかいなかった。今度会うときはせめて半分くらい残っていたら……という私の淡い気持ちは粉々に砕け散る。特に男の子は全滅。やはり仕事しながらでは勉強に集中できないのだろうか? N先生と再会して笑顔で挨拶。授業が始まる前にM日本語学校と提携している一般社団法人ナントカの方が説明をする。本当は色々聞きたいことがあったのだけれど、真っ当な社会人の前に気後れしてできず、終始、静かに話を拝聴。説明が終わると授業が始まり、私も聴解を少し手伝った。授業が終わった後、僧院に寄付する宮崎駿作品のアニメコミックと学習漫画日本の歴史、そして先生へのプレゼントとして本を何冊かと昔インドのリシュケシュで韓国人女性から貰ったブッダガヤのブッダが悟りを開いた場所に生えている木の葉を渡す。私にとってはただの葉っぱでもリアル仏教徒たる先生(と旦那)にとっては大きな意味があるだろう。あと前来た時にここで教師をしていて、「将来自分の嫁に」とほんの少しだけ思っていた女の子へのプレゼントに日傘を持ってきたのだが、残念ながら既にして彼女の姿はなかった。これでは将来の嫁どころか永遠に音信不通である。その後の授業にも付き合った。Basicクラスが二クラス並行してやっており、相変わらずの大所帯だったが、果たしてこの中で何人残るやら。

ちなみに強者が弱者に施すのは当然と考えられているお国柄なので、寄付してもさほど感謝されず、手続きは極めて事務的に行われます。

5月15日(日)

12時にKとの待ち合わせ場所のシャングリラホテルへ向かう。相変わらず電話が通じないのでネットが通じるパソコンを持参。少し私より遅れてやってきたKは写真よりも若干老けて見えたが(写真は6年前のものらしい)、とても上品で綺麗な人だった。中のカフェで話をする。開口一番、「君は秘密警察じゃないのか?」と尋ねると、彼女は口をあんぐりと開け、「それでもいい。人権と民主化の時代がミャンマーにやって来た。考え方を変え、職業を変え、警察官から婚活業者に転職しよう!」と言ったら、ははははとさも愉快そうに笑った。どうやら杞憂だったようだ。彼女は奨学金を貰って日本の大学に留学した経験があるそうで、授業は英語だったので日本語は挨拶程度しかできなかったが、英語は語彙も豊富で文法的にも正確でとても流暢だった。私の理解度は70%くらいといったところで、私は彼女の話を何度も聞き返し、逆に彼女は私の拙い英語を馬鹿にもせず辛抱強く聞いてくれた。国際結婚一般については、ミャンマー人女性はとてもシャイであること、婚活業者というと人身売買を連想するため警戒されること、合コン形式は可能だと思うが、一度、弁護士に相談し、然る後ミャンマーで会社の登録を試みてはどうだ? とアドバイスされた。他にデータのでどころを何回も尋ねられたのが、印象的だった。どうやら国家公務員の彼女でもミャンマーの各種統計に触れる機会は乏しいようだ。なぜ私の話に興味を持ったのか尋ねると、彼女は率直に「お金が欲しいの」と答えた。正直でいい。結婚したいとは思わないか? と尋ねると、やはり「したい」と答えたが、相手がいないのだという。上方婚志向から逃れられないのはミャンマー人女性も同じのようだ。最後に彼女は「なんでこんな見通しの分からない仕事をし始めたの?」と尋ねてきたので、私はこう答えた。「晩婚化・非婚化の問題について大学教授は論文を書く。新聞記者は記事を書く……けれどもそれでは何も変わらないじゃないか。誰かが行動しなければならない」と。ひとしきり話し終えると、二人でシュエダゴォンパヤーへ。強烈な太陽光線に照らされた床は熱くてたまらなかったが、彼女のガイドで見学して回った。メインのブッダの仏像の前で正座して腰を曲げて祈る彼女の姿は本当に美しかった最後に屋台でココナッツジュースを飲み、二人で写真を撮って散会。ほんの少し前にネットで知りあった異国者同士で、本当にいい時間を過ごせた……と感慨に耽ってばかりもいられないのが残念。疲れきって宿に帰ると、遥か昔にメールを出した中国系の21歳のミャンマー人女性からメールが入っていた。都合が合えば、彼女とも会おうと思う。

この中国系の21歳のミャンマー人女性って誰だろう?……思い出せない。 😆

5月16日(月)

朝食を食べた後、弁護士を紹介してもらおうとI氏に電話をかけるが、なんとも素っ気ない対応。ショートメールに入れておくと言ったが、案の定、返事はなかった。商人の掌返しには慣れているが、何回味わっても嫌なものねえ。その後ネットで見つけた日本人法学者の方が関わっている法律事務所に徒歩で赴く……が、辿り着かない。途中、タクシーに乗るが、それでも辿り着かず、一旦、宿に戻る。パソコンで事務所の住所をたしかめると、なんとストリートの番号を間違えるという失態を犯しており、もう一度、今度はタクシーで赴く。88番ストリートの11番地……と住所を辿っていくと、柄の悪そうな地域に入り込む。果たしてこんなところに法律事務所などあるのだろうか……と進んでいくと、あった。88番ストリートの11番地。

ということで、徒労感いっぱいで宿に引き返してふて寝。6時頃目を覚ますと外から大阪弁が聞こえてきたので、部屋を出ると、隣の部屋に日本人男性がいた。Tさんといって、年齢は80歳、大阪で安かろう悪かろう的なスーパーを経営しており、一年に数回一ヶ月単位で海外旅行をしているのだという。バックパッカー宿に泊まっているお年寄りは大抵大金持ちか高学歴者だ。夕食から帰ってくると、また道端でTさんと擦れ違い、ひとしきり商売の話を捲し立てられる。「本気で話してるんやで」というのが彼の口癖で、最後「橋下さんは神様や!」とのたまった。大阪都構想にも諸手を挙げて賛成していたらしい。橋下維新的ネオリベラリズムがどの層に訴えているかよく分かろうというものだ。

それにしても昔はくさるほどいた若者のバックパッカーの姿を全然見ない。ホワイトハウスで見た日本人は例のボランティアサークルの学生以外は全員60歳以上だった。グローバル化の波に乗っていない若者はやはり賢い!

5月17日(火)

パソコンのUSBと電話の調子がおかしいので、修理に持っていく。電話は単にトップアップカードが切れていただだった。その後、ホテルの近くにある弁護士事務所が軒を並べているというビルへ。たしかに事務所はいっぱいあり、そのうちの一つの事務所に入る。応対してくれたのは恰幅のいい初老の弁護士。色々質問すると、彼は訛りの強い英語でベラベラ喋り始め、まずは会社を設立すること、なんとかという日本企業が沢山入っているビルの近くのオフィス街に日本語を話す若いミャンマー人女性が沢山いるから彼女たちをスカウトすることなど色々とアドバイスをくれた。他にも日本の農家はフィリピン人を嫁さんにしているなど、さすがインテリなだけあって色々なことを知っていた……が、肝心の法律知識がいまいち頼りなく、明日出直すことにする。弁護士といってもミャンマーのそれは、日本の行政書士レベルのようなんだよね……一週間の疲れがドッと出て、夕方頃、ホテルに帰って爆睡。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(2)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

2月14日(日)

早朝Tさんを送りだし、朝食を食べた後、ダマラキタへ。僧院の外で煙草を吸いながらN先生を待っていると、Mさんが車に乗って現れた。早速来てくれたのだ。N先生が来ると、「ゲストを連れてきました」と言ってMさんを紹介する。MさんがJICAの職員の奥様だと聞くと、N先生は大変驚いていた。早速Mさんに教壇に立ってもらう。授業が終わった後、「主人です」と言って、NNS先生はいかにも理系秀才風の男性を私とMさんに紹介した。旦那が医者という共通点があるということで、二人は話が弾んだようで、Mさんはできる限り僧院に来てくれると言ってくれた。Mさんが帰った後、私が「いい人連れてきたでしょ?」と言うと、N先生は「はい。先生(私のこと)のこと信用する。婚活やるんだったら、友だち紹介するよ」と言い、「それにしても」と話題を変えて、「先生が結婚していないことが大問題だよ」と喝破した。はい、仰せの通りです。ということで今週帰国する予定の私は、一旦ここでN先生と別れの挨拶。その後、マノーラマへ行って、僧院の前で坂本九の「上を向いて歩こう」が好きなお坊さんと話し込む。疲れがドッと出て、エリンクラスが始まってもいまいち集中できず、挨拶もそこそこに僧院を退散。

さすがJICAの奥様は献身的です。これぞ主婦力。

2月15日(月)

最後の気力を振り絞って帰国する前にI氏が言っていた人材派遣会社のM氏に会おうと思ってメールでアポを取る。

2月16日(火)

記憶も記録もなし。

2月17日(水)

M氏から返事が来て、明日会うことになる。

2月18日(木)

M氏の事務所へ。いつぞやにI氏の事務所で会ったK氏もいた。I氏はちょっと怖い感じの人で、開口一番、「お金が欲しいんでしょ?」とのたまった。が、それでも二人とも親切に色々教えてくれ、もう一度、ミャンマーでやる気になる。「真面目すぎる」「性格が良すぎる」というのがK氏の私評。M氏は私に興味ない感じだった。事務所を辞去した後、なんとなくそのままタクシーで帰る気が起きず、しばらく歩いて日陰で煙草を吹かす。なんだろう? この割り切れない気持ち。

M氏は畑違いの分野から実習生の派遣業に乗り出した人物です。見事なまでに頭の中は金、金、金だけ 😆 ミャンマーでは実業を営んでいる間の中ではこういう人物は嫌悪され、避けられていることも多く、私も性格が合いませんでした……が、やはり金儲けに長けているだけあって学ぶことも多く、彼との面談は糧になっております。もう私のことなど忘れているでしょうが、Mさんどうもありがとうございます。

2月19日(金)

N先生に電話して、帰国が伸びたので、明日僧院に伺うと連絡する。散髪に行く。

2月20日(土)

ダマラキタへ。僧院の前の雑貨屋で女の子の生徒と話していた時、傍にいた犬に右手の小指を咬まれる。みんな大丈夫、大丈夫言っていたけれど、狂犬病のことは頭にないようだ。帰国次第、病院に行かなければ。この日もNさんはやって来て、日本語教師の資格を持っている女友だちを連れてきた。彼女も授業を手伝ってくれるということで、ありがたいことだ。先週、大々的にサヨナラしてきたのでマノーラマに行く気は起きず、ダマラキタの授業が終わると速攻で宿に戻る。

結局、ワクチン打つの忘れていて今もしていません。まあ、もう大丈夫ですよね?先日、母国で犬にかまれて狂犬病を発症したフィリピン人の方が亡くなって背筋が寒くまりました。 😥

2月21日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、途中参加の4人を居残りさせて、あいうえおの練習をさせる。「つ」を上手く発音できず、「す」と言ってしまうのが、ミャンマー人の泣き所。

この四人のうちの一人の子が私になついていたのですが、この後、一度も顔を合わせていません。出来はあまり良くなかった……元気にしていればいいけど。

2月22日(月)

宿に泊まっている大阪出身の84歳の女性Fさんと親しくなる。84年から年に数回世界を一人旅しているらしく、北極から南極まで行ったことがあるのだという。その人生も波瀾万丈すぎて書ききれない……というか機関銃のようにのべつまなく話すのでほとんど頭に入らなかった。息子さんは京大を卒業して大阪大学の理系学部の教授をしているのだそうだ。昼、そのFさんと宿の近くの中華料理屋に行く。私の仕事の話をすると、「趣味やな」と一蹴される。ま、Fさん、学歴コンプレックスを自認するだけあって、権威主義だから……でもその後その何倍もの励ましの言葉をいただいた。

Fさんとは今でも年賀状のやりとりをしています。彼女は90歳近くになっても単身チベットに行ったり、サハラ砂漠に行ったりしています。すごいですね。

2月23日(火)

この日も昼はFさんと中華料理を食べにいく。帰りに宿の女の子にミニケーキを買って帰ろうと、Fさんが昨日行ったケーキ屋に行くことにしたが、これがなかなか見つからず、1時間近く炎天下のダウンタウンを歩く羽目になる。宿に帰った後、爆睡。夜、Fさんとカレーを食べにいったが、帰りはタクシーに乗った。深夜、恐らくカレーを食べた後に路上で買った天ぷらの油が当たって、ひとしきり吐く。

当時から胆石を患っていたんですね。町医者の超音波検査ではわからず、胃の病気だとずっと思っていた。日記には全然書いていませんでしたが、ミャンマーの料理は油が多いので、よく吐いていました。

2月24日(水)

早朝、ヘロヘロの身体で旅立つFさんを見送った後、寝込む。ちなみにFさんからは帰国後丁重な文面の葉書をいただいた。

2月25日(木)

I氏に帰国の挨拶に行く。そこでその後東京ダジャン祭り実行委員会で再会するNさんと邂逅。I氏にはかなり邪険に扱われた印象。そこの食堂で食べたチキン南蛮に当たって、再び嘔吐・下痢に襲われる。せっかく高い金を払って日本食を食べたというのに、なんてことだ。

I氏は好人物なのですが、女性嫌いの同性愛者なので私は疎んじられたようです 😆

2月26日(金)

一日中嘔吐と下痢に苦しむ。宿の前にある薬局で薬を買って飲むと、少し症状がよくなる。

2月27日(土)

なんとか体調が回復して、ダマラキタへ。僧院長に昼食をご馳走になる。写真にあるとおり、ミャンマー人は結構いいものを食べている。何が面白いのか、僧院長と一人の女の子が食事中の私の写真を撮っていた。この日はN先生は日本出張のためにお休み。M日本語学校のT氏が来ていて、生徒を勧誘していた。T氏は炎天下で写真をパシャパシャ撮っており、私が「日陰にいないと危ないですよ」と言っても、「湿気がないんで、僕は割と平気ですね」と笑っていたが、帰国後、体調を崩して寝込んでいたらしい。

2月28日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、生徒たちが礼をしてくれた。その後皆で相乗りバスに乗って、日本・ミャンマー共同主催のフェスティバルへ行く。会場では様々な日本企業のブースや屋台が出ていた。私はたこ焼きを買って、生徒たちに配って回った。N先生はたこ焼き、餃子、焼売、焼き鳥などあらゆるものを食べていた。私も勧められたが、体調不良のため、やんわりと断る。会場には1時間ほど滞在し、先生や生徒たちとはここでお別れ。N先生からは「先生(私のこと)、またミャンマーに来てください」という言葉をいただいた。切ない気持ちでタクシーで宿に帰る。

2月29日(月)

午前中、60代の年金夫婦パッカーと8階のルーフで話し込む。60代といっても二人とも若々しく、旅に出て一年半になるそうだ。その後、スーレー・パヤ近くのビアホールで食事とビール。私の仕事の話をすると、奥さんが「ハーフは優性遺伝子の塊だということをアピールすればいいのよ」と言って、自分は鹿児島、旦那さんは沖縄出身で、そのせいか、二人とも学歴はないのに、五人の子供は大阪大卒、広島大卒、島根大卒、看護大卒、インドの大学に在学中と皆高学歴なのだと教えてくれた。果たして鹿児島と沖縄でハーフといえるのかどうか疑問だったが、一応、参考にさせていただくことにした。二人はそのまま旅立ち、ほろ酔い気分で宿に帰る。

3月1日(火)

12時にチェックアウトして、昨日バックパッカー夫婦と一緒に行ったビアホールで酢豚と黒ビールをいただく。何を考えて飲んでいたのか覚えていない。たぶん何も考えていなかったのだろう。ほろ酔い気分で宿に帰り、やがてタクシーがやって来て空港へ。このミャンマー滞在が一瞬の気の迷いなのか、一生の大事の始まりなのかは、この後の展開次第。

色々ありましたが、読み返して当時と気持ちがあまり変わっていないのを再確認。ある種の日本人男性にはミャンマー人女性は向きます。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(2)

2月4日(木)

記憶も記録もなし。

思いつきでミャンマーに来たものの、コネなし金なしで俺この歳でこんなところで何やってるんだろう?感が日に日にましてきて、時々何もしたくない日が出てきました 異国のホテルの一室で何もしていないとさらにそんな思いが募ってきて悪循環。 🙄 

2月5日(金)

午前、ウィン先生と面会すべく徒歩でウィン日本語学校へ。が、途中、迷子になってしまい、15分ほど遅れて着く。大物相手になんたる失態。用件の内容はいえないが、またしてもウィン先生に速攻で否定されて凹む。そして薄々気づいていたことだが、マノーラマ僧院やウィン日本語学校に通っている生徒は、比較的経済的余裕がある層の子弟で、皆自分の将来に夢中で、日本人と結婚することなど眼中にないと教えられる。そして「ここはそんなにお金を持っていない生徒が通っているよ」と言って、オッカラパの近くにあるダマラキタという僧院を教えられる。が、ウィン先生も正確な住所までは知らなかった。

ウィン先生に会ったのはこれが最後です。一文の得にもならないのに山のものとも海のものともつかぬ私に二回も会ってくれて感謝の限り……とはいえ彼は単純な”善人”ではなく、かなりしたたかな人物だと聞いています。ミャンマーの数少ないできる男性によくいるタイプなのですが、いまいち何を考えているのかよくわからない哲学者風の方です。こういうきめ細かさが彼の成功の秘訣なんでしょうね。

2月6日(土)

マノーラマへ。この頃から5時頃に僧院へ行って暇そうにしている男の子たちや僧院の小僧と駄弁るのが日課になった。大卒の男の子たちは特権階級なのだろう、皆、ニートである(女の子たちは働いている)。この日JICAの職員の奥様であるNさんがやって来て、僧院のことを色々訊かれたと記憶。トークコーナーでは「ミャンマーは女の子ばかり頑張っている。男の子はもっと頑張りましょう」という話をしたが、爆笑されただけで終わった。

ミャンマーの若い男の子は気はいいんだけど、肝心な時に本当に頼りない。↑で駄弁っていた男の子の一人はその後重い病気になり、私は見舞いに彼が欲しがっていた日本の本を人づてに渡したのに、例のFacebookでの誹謗中傷騒動の後にあっさりと私をFacebookでアンフォローしました。ちなみに女性の友だちでそんなことをした一人もいません。みんな私を信じて応援してくれています。

2月7日(日)

午前中、ウィン先生に教えてもらったダマラキタへ。オッカラパ駅の近くにあるという情報しかなかったので、とりあえずタクシーで駅へ行く。駅に着くと、近くに僧院があり、そこにいた人たちに「Japanese language school?」と尋ねると、「違う」と言われ、タクシーの運転手に住所を告げる。再びタクシーに乗っていくと、果たして目的の僧院があった。マノーラマに比べると、生徒たちの服装がなんともみずぼらしく(が、これでもミャンマーの貧困層ではなく中間層なのだ)、一瞥、言葉を失う。が、なんとか気を取り直して、日本語を少し話す僧院長だというお坊さんに「この僧院に日本人の男性と結婚したい女性はいませんか?」と単刀直入に尋ねると、僧院長は目を剥いて驚かれた。あの顔は一生忘れないだろう。”やばい、お坊さんを怒らせた……”と青くなったが、どうやらそうではなく、二階の教室に通された。この僧院の生徒も女の子ばかりだった。やがて先生らしき妙齢の日本語堪能な女性が現れ、用件を話す。話の内容は型どおりで、さして進展もなく、なんとなく終わる。僧院長の話が終わると、やがて授業が始まり、女性が教壇に立つ。どうやら今日がクラスの始まりだったようで、皆、あいうえおから勉強していた。私は字の修正と発音を手伝った。授業が終わると、「もう来ないとは思いますが、色々ありがとうございました」と先生に挨拶した。先生は「また来てください」と凛とした声で言った。その後、マノーラマへ行った。日本の大学関係者が来ていて、生徒たちに何か説明していた。またマノーラマの世話人たるU氏から名刺をいただく。

いまだに色々お世話になっているN先生との初対面です。本当に凛とした美しい方で、まさに私が追い求めていたミャンマー人女性でした……が、当時すでに既婚。旦那さんはお医者さんで、今はお子さんが一人いらっしゃいます。「先生は素敵な男性に出会えてラッキーでしたけど、他の女性はそうじゃないんですよ」と言うと苦笑いしていました。ちなみにミャンマーは医者の80%が女性で、医学部の試験では男性に点数を上乗せしているらしいのですが、これがないと医者が全員女性になると言われています。

2月8日(火)

一波乱あった後ということで、ひねもす宿の8階のルーフで煙草を吹かしながらボッーとしていた。そのうちに、”あの先生にもう一度会わなければ”という思いが募る。「また来てください」という切実な言葉。そして――美人だったから。うん、明日会いに行こう。

 

 

2月9日(火)

”あの先生にもう一度会わなければ”と思ったものの、先生の名前も住所も分からず、それどころか僧院の住所も分からない。とりあえずまたオッカラパ駅に今度は金をケチって電車で行くことにして、中央駅へ赴く。が、待てど暮らせど電車はやって来ず、痺れを切らしてタクシーに向かうことにする。が、オッカラパ駅に着いたものの、駅近くの僧院には耳の不自由な老人しかおらず、周囲の人間に聞いてもダマラキタ僧院の場所は分からない。とりあえずタクシーを走らすも、なかなか僧院に辿り着かず、周囲を彷徨うばかり。が、やがて見覚えのある景色が広がり、その辺りをウロウロしているうちにダマラキタに着く。タクシー運転手が僧院長に何やら託すると、やがて僧院長が先生の名前と電話番語を書いたメモを持って現れ、タクシー運転手が先生に電話して、何が何やら分からないまま再びタクシーに乗り込む。しばらくするとタクシーはある建物の駐車場に止まり、そこで待っていると、やがて若い女性が現れた……が、二日前見た女性とは違う印象。よくよく話すとやはり別人で、先生が勤めている会社の同僚で、先生が外出中なので、代わりに私を迎えにきたのだという。再びタクシーに乗り込んで、その会社に行くが、そこでタクシー運転手から20000チャット請求される。目ん玉が飛び出るような金額だったが、色々助けてくれたので、素直に金を払う。会社の二階にある事務室に通され、コーヒーをご馳走になる。私を会社に連れてきた女性はワオワオさんといって、N4取得者、昨年会社の社長が所属しているライオンズクラブの招待で日本へ行き、学校で子供たちと交流し、御嶽山に登ったのだという。「私たちが登った次の日に噴火したので、びっくりしました」と言っていた。「ところで先生は結婚していますか?」と尋ねると、「しています」と即答され、ガッカリ。さらに旦那の素性を尋ねると、「お医者さんです」「若いです」「26歳(本当は28歳)」と答え、先生の年齢を尋ねると、「31歳くらい……」と答えた。「くらい」ってなんだろう? やがて先生が現れ、改めて婚活事業の話をする。先生は名前をNといって、ヤンゴン外国語大学の日本語学科で日本語を学んだ才媛で、この会社はI商事の下請けで医者が着る白衣を作っているということだった。話が終わると、丁重に礼を述べてタクシーで宿に戻る。夜は近くのチャイナタウンで行われた新年のダンスコンテストを切ない気持ちで見守る。

以来、N先生の家には度々お邪魔しています。こちらは昨年お邪魔した際にごちそうになったカレー。美味しゅうございました。ちなみに写真にはありませんが、他にお皿に山盛りになったチャーハンもありました。とても食べ切れる量ではありません。ミャンマーでは食べ切れないほど料理を出すのが礼儀とされていて、残してもOKなので、くれぐれも出された料理を全部食べないように。お腹がパンクします。

2月10日(水)

人格的に大変優れた女性とじっくり話し込んだということで、何かか吹っ切れ、ミャンマーでの婚活事業を諦め、来週、帰国する決意をする。気が重いが第二志望のベトナムでやろう。

2月11日(木)

帰国の挨拶をしようと、世話になったI氏の元を訪れるが、I氏は帰国中で23日まで帰ってこないと聞いて愕然。帰りにマノーラマに寄って写真を一枚撮ってくる。

2月12日(金)

コンサルタントのTさんが帰ってきて、「よおっ、人買い」と罵られる。

2月13日(土)

ダマラキタへ。袖すり合うも他生の縁ということで、帰国までの僅かの間、N先生の授業を手伝うことにしたのだ。ダマラキタの子たちはマノーラマの子たちに比べて身なりは貧しいが、顔は賢そうで、実際、日本語の勉強を始めたばかりなのに、あいうえおをしっかり書けていた。大学進学率が10%くらいなので、たとえ大学に行ってなくても頭は悪くないのだ。授業が終わった後、ダウンタウンに買い物に出かけるというN先生とその妹といとこのお坊さんと一緒にタクシーに乗る。妹さんはシンガポールで働いているらしく、とても可愛らしい女性だった。私はマノーラマがあるチーミインダイ駅近くでタクシーを降りる。そしてエリンクラスに来ていたJICAの職員の奥様であるNさんに思いきって話しかけ、ダマラキタに来てくれないか? と頼む。「私、そんなものに興味ないわ」と冷たくあしらわれたらどうしよう? と内心ドキドキだったが、さすがJICAの職員の奥様ということで理解があり、都合が合うときに行ってみるという回答を得た。この日は東大のMISという国際交流のサークルの学生が来ていた。宿にいるアホダラ大学の学生と違って、大変賢そうで、礼儀正しく、日本の未来にホッと一安心。トークコーナーでは、エリンクラスNO.2の実力者YKさんと一緒になり、ダマラキタの話をしたが、冷たい反応しか返ってこず、二度、ミャンマー人の階層意識を見た思いがした。宿に帰って明日バンコクへ向かうTさんとウイスキーを酌み交わす。実に色々な話をしてくれたが、仕事の話をするときは、顔つきが変わった。HISの社長とは旧知の仲らしく、「お前にもほんの少しだけ似た匂いがある」と言われた。そんな大物と比べられても困る。そして別れ際、「人食い鮫の目をしている」とも言われた。

昔気質のTさんでしたが、奥様を早くに亡くし、娘二人を男手一つで育てたそうだ。けれども上の娘さんも既に亡くなり、下の娘さんも当時末期がんで余命幾ばくもないという状態でした。おそらくその後亡くなったのでしょうう。Tさんは「俺も独身に戻る。ガハハハ」と笑っていたが、やはりどこか寂しそうでした。酔いも深まった頃、Tさんは一枚の手紙を見せてくれました。上の娘さんの友人に彼女の形見を催促する手紙でした。一読、娘に対する愛情に溢れた心が温まる内容に手紙でした。その手紙を見せ終わった後、Tさんはへへへと恥ずかしそうに笑いました。これがTさんにお会いした最後です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(2)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(1)

1月26日(火)

ヤンゴンの老舗日本語学校であるウィン日本語学校が、ホテルの近くにあることが分かったので、翻訳を頼みに出かける。が、その途中、場所が分からず迷子になり、結局、学校の職員に迎えに来てもらう。待ち合わせ場所にやって来た女の子は、白い肌をしたそれはそれは凛々しい顔だちをした綺麗な子だった。二度惚れる。学校に赴くと、ウィン先生は不在で、職員は全員若い女の子だった。私を案内してくれた女の子にFBページに打ち込む日本語の文面を渡し、見積もりを出すのに数時間かかると言われたので、少し談笑した後、一旦辞去。ホテルに戻って時間を潰していると、やがてメールが入り、拙い日本語で「翻訳には2、3日かかります。値段は20,000チャットです。どうしますか?」とあった。すぐに電話をかけ直し、紙に翻訳してもらうのではなく、ミャンマー語でFBに打ち込んでほしいと頼んだが、なぜか「駄目です」の一点張り。埒が明かないので丁度ウィン日本語学校に用事があったNさんと一緒に学校に赴き、今度は面と向かって頼んだが、やはり「駄目です」の一点張り。Nさん曰く「融通が利かないんだよ」とのこと。東南アジアではよくあることらしい。Nさんとの商談が終わったウィン先生と明日の面会の約束を取りつける。その帰り道にNさんの紹介でスーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れて翻訳を頼むが、結局、断念。が、その翻訳業の人物は私の話に興味を持ったらしく、「また来てくれ」と言われた。

久しぶりにこの私を迎えにきた子のことを思い出しましたねー 😛 凛々しい顔立ちをしていて本当にきれいだった。日本に語学留学したいとか言っていましたけど夢は叶ったのかな?ちなみに件の日本語学校はヤンゴンで一番有名な日本語学校なのですが、働いているのは全員女性でした。

1月27日(水)

朝の10時にウィン日本語学校に赴いてウィン先生と面会。スカウト作戦が没になったので、人材派遣会社の如く、日本語学校の生徒の中で日本人男性と結婚したい女性を募り、その代わり学校にいくらかコミッションを払おうと考えたのだ……が、やはりウィン先生からも(中略)難しいと指摘される。やはり駄目か……かなり凹み、「もうカンボジアかベトナムにしようかなあ」という気分になる。その夜、ヤンゴンを離れるNさんに女の子を買える店で女の子を見にいこうと誘われ、ある店に連れられていったが、どうやらその店は商売替えしたらしく、普通のビアホールになっていた。それでも女性が沢山ステージに上がってダンスをするファッションショーなるものがあったのだが、それも服を脱ぐでもなく、ラジオ体操のような健全なものだった。これは11年前に観たものとまったく同じで、スロートレインだけではなく、ここにも変わらないものがあった。翌朝、Nさんはお気に入りの宿の女の子にセクハラタッチをして、颯爽とカンボジアのプノンペンに飛んでいった。器の小さい人だったが、色々教えてもらい感謝。

このウィン先生というのは、アウンサンスーチー氏が訪日した際にその通訳を務めた人物です(京大留学経験のあるスーチー氏は実は日本語が話せると聞いたのですが、あれは嘘なのでしょうか?)。安倍総理、甘利氏、高村氏など自民党の要人たちと一緒に撮った写真をたくさん見せていただきました……とこのようにミャンマーで要人と会うのは実はそんなに難しくないんです。ミャンマーでビジネスをしようとすると「誰それと知り合いだ」という人がわんさか湧いてきますけど、話半分どころが10分の1程度にも聞いてはいけないと思います。たいてい何回か顔を合わせたことがあるだけで、相手は名前も覚えていないことが多いです 😆 

1月28日(木)

Kさんという70代の男性がやってくる。先の二人に比べればかなりの常識人。香川県善通寺市の人で、両親が坂出市の私とうどんネタで盛り上がり、実家の近くにある日の出食堂が全県的に有名な店だということを初めて知る。婚活事業の話をすると、「ちょっとタイミングが早すぎるからね」などと年長者ならではのアドバイスをいただく。夜は一緒にインドカレーを食べにいき、よもやま話に話を咲かせる。満州出身で引き揚げの記憶がかすかにあるらしく、その時の興味深い話を聞く。

1月29日(金)

気分転換にとKさんと一緒に日本人墓地へ行く。空港近くにあるのだが、タクシーをチャーターして14000チャットかかった。墓地は地元の人たちが整備していて、かなり綺麗で、杉良太郎の記念碑もあった。「インパール作戦に破れた日本兵はミャンマーの人たちにとてもお世話になったんだよ」という話はヤンゴンで会った年配の人たちからよく聞いた話だ。二人で10000チャット寄付して退散。帰りのタクシーの中で感極まったKさんは泣いていた。

ちなみにイギリス人墓地はもっと立派です。さすが戦勝国 😆

1月30日(土)1月31日(日)

両日ともマノーラマ僧院に通っていた。30日にロンジーを履いていくとエミリとクミコ(森公美子に似ていることから、私が日本人名をつけた美容師の女の子)から「カッコいい!」と褒められ、こそばゆい気持ちに。5時から始まるクラスにも参加しようとしたが、二階にある狭い図書室に圧死するほど生徒がぎゅう詰めになっているのを見て、早々に退散。二階の教室で時間を潰していると、ちびまる子ちゃんによく似た可愛らしい女の子に話しかけられた。「漢字は朝飯前ではありません」と流暢な日本語で話す彼女は驚愕の19歳で、既にN3を取得しており、将来の夢はガイドになることだという。またここにきてようやく理解したが、ここではエリンクラスという授業が5時~6時半、6時半~8時の2回行われており、その後半の授業の残り40分くらいをグループ分けして日本人1人をあてがい、会話をしながら日本語を学ぶということにしているようだった。両日もこのコーナーではエミリと眼鏡をかけた長髪の細い女の子と一緒のグループになった。エミリは日本の大学に留学したいのだが、一人っ子なので両親が反対しているのだという。私は「大学卒業後に必ずミャンマーに留学すること条件に留学の許可を貰ったらどうだ?」とアドバイス。眼鏡の子は親の希望で医学部を志望するも点数が足らず工学部の土木科に進み、今年の7月大阪にあるIT系企業に就職が決まっているのだという。彼女に「ミャンマーに来て驚いたことはなんですか?」と尋ねられたので、信仰熱心さ、渋滞のひどさ、女性が綺麗になったことと答えた。

2月1日(月)

午前中、スーレーバゴダの近くで翻訳業を営む男性の元を訪れる。なんの話かと思えば、金の話ばかりでうんざりした私は早々に退散。一日中げんなりしていた記憶。

2月2日(火)

このあたりでどこぞ大学のボランティア学生グループが宿にやって来た。が、なんとも頭が悪そうで、一瞥して不快感を催す。結構長い間滞在していたが一言も口を利かなかった。まあ、あちら側にしても、こちらはええ年こいて、バックパッカー宿に泊まっている怪しいおっさんなのだろうが。

2月3日(水)

I氏の元を訪れて、これまでのことを報告。そのI氏から実はウィン先生は先年の秋ミャンマー政府使節団が訪日した際、通訳として同行した大物だという話を聞く。なんでも一日700ドルの報酬を受け取るミャンマー随一の通訳なのだとか。この話を聞いて、早速、ウィン先生ともう一度アポを取る。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

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第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(1)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

1月15日(金)

デヴィッド・ボウイの死の衝撃を引き摺ったまま、地下鉄東山線藤が丘駅からバスで中部国際空港へ。空港自体へ行くのも11年ぶり。荷物受け取り場でビジネスビザを取ってくれたI社の荷物を受け取る。会社の荷物を運ぶ代わりにビザ取得代をただにしてくれるのだ。まるで運び屋みたいで怪しい仕事だと思ったが、後で聞くと、ヤンゴン在住の人はみんなそうしているらしい。が、自分の荷物と合わせてタイ航空の重量制限の30キロを遥かに超え、ボストンバッグの中身を手荷物に詰め替える羽目に。それでも持ち込み荷物の重量は30キロを超えていたが、慌てて荷物を詰め替える哀れな中年男の姿に若く美しいグランドスタッフたちは同情してくれたのか、結局、追加料金は取られなかった。フライトはバンコク経由ヤンゴン行。機内でどう過ごしていたかは記憶にない。ヤンゴン国際空港に着くと、東南アジア特有のモワッとした生温かい空気に包まれる。これからミャンマーで婚活事業をやろうとしている身ながら、実はこの気候は大の苦手だ。11年前にミャンマーに旅行で行ったが、当時首都のヤンゴンでさえ外食できる場所はほとんどなく、食事は油っぽく、他の東南アジアには腐るほどあるフルーツジュースもマンゴージュース以外なく、ビールと水と煙草しか買うものがなかったと記憶している。唯一の救いは女性が綺麗なことである。ビザの手続きはスムーズに行き、ゲートを出たところでI社のミャンマー人社員に迎えられ、I社の社長のI氏と電話で話す。I氏からは重量制限を確認していなかった不手際を丁重に詫びられ、明日の夜に食事に誘われて、これを快諾。車の車窓の外に見える騒々しいヤンゴンの夜景は記憶にあるような、ないようなあやふやな感じ。宿泊先はダウンタウンにあるバックパッカーご用達のホワイトハウスホテル。見覚えのある眼鏡をかけたインテリ風のマネージャーが迎えてくれ、8階の部屋に案内される。記憶にあるとおり大理石が施された綺麗な内装で、部屋も8ドルのわりには小奇麗。門限の11時までまだ時間があったので、荷物を置いて一旦外へ。夜の10時を超えていたが、ダウンタウンはその名に相応しくかなり賑やか。人々も昔に比べて若干洋服姿の人が増えたような気がするが、あまり変わっていない感じ。ちょっと擦れた感じのねーちゃんも笑うと屈託がない。歩道橋の上で出会った子供の写真をパチリと撮ってホテルに帰る。窓もない部屋だったが、夜はさほど熱くなく、毛布に包まって寝る。

結婚もしておらず、婚活もしたこともない私が突然、ミャンマー人女性を日本人男性に紹介する国際結婚斡旋会社を思い立ったのは、ひとえに日本人男性の未婚率が30%に迫ろうとしているというニュースに衝撃を受けたからです。そのニュ―スを聞いて、真っ先に思いついたのは「ミャンマー人と結婚すりゃいいじゃん?」ということでした。10年前にミャンマーを訪れた際に「ミャンマー人女性はきれいだなあ……」という感想を抱いていたのですが、それがにわかに思い起こしたのです。その時はミャンマー人女性の未婚率が高いことも知らず、単なる思いつきでした。思い立って2ヶ月後くらいにはミャンマー地を踏んでいました。

1月16日(土)

2階の10ドルの部屋が空いたので、そこに移る。私も既に40歳、8階までいちいち階段を上り下りするのはさすがにキツイ。ホワイトハウス名物のバイキング風朝食をいただき、屋上のテラスに上って、ヤンゴンの朝の風景を眺めながらiPhoneで音楽を聴いて、気持ちを高める。その後ダウンタウン周辺を散歩。昼間に外に出ると、ミャンマーの変化は一目瞭然。11年前は人もまばらで、外国人だと目立つからか、一日一回は必ず日本語話者のミャンマー人に話しかけられたものだが、今はそんな余地もないほど人で溢れ返り、ミャンマー人だけではなく、インド人、中国人、バングラデシュ人など人種も様々でかつては一軒もなかったレストランやカフェやスーパーが軒を並べ、ヒンドゥー寺院やモスクまであり、車の渋滞もひどい。商店を一軒一軒尋ねて、暇そうな店番のねーちゃんをスカウトしようとした当初の目論見は外れた。何か他の手を考えなければ。夕方にはI氏と某大手日本商社ご用達の日本料理屋Hで食事。日本料理屋と言いつつ、麻婆豆腐や酢豚やふかひれスープなどの中華料理に舌鼓を打ちながら、ミャンマーの色々興味深い話を伺う。女性を集めたいのなら、Facebookを利用すればいいとのこと。なんでも2014年にインターネットが解禁され、通信費が劇的に下がって以来、ミャンマーではスマフォが爆発的に普及し、若年層ではFB加入率は95%を超えているのだとか。これはいいことを聞いた。そして「ここ行ってこなよ」と言われて、チーミインダイ駅近くの僧院を教えられる。ここで日本語を教えているから、顔を出してみるといいと。「そうします」と言って、ありがたくその情報をいただく。

このミャンマー訪問は私のスマホデビューでもありました。このために名古屋は栄のアップルストアで買ったiPhone6plusはその後4年余活躍して、今年の1月にiPhone11と交代しました。

まだ使い慣れていなかったので、この時の写真はあまり撮っていません 😆 まだ写真を撮るという習慣がなかったのです。

1月18日(月)

朝、ホテルの一階のロビーでiPhoneを弄っていると、マネージャーに話しかけられ、私を覚えていると言われた。11年前に計一週間ほど泊まっただけなのに、顔を記憶しているとはありがたい。その後、マネージャーは日本に10年以上滞在したことがあり、奥さんも日本人(超美人)で、私とは英語で会話していたが、日本語がペラペラであることが判明。またロビーの椅子の後ろに積み上がっているアルバムの中に水木しげるが映ったアルバムがあった。なんでも2000年代初頭に取材のためにミャンマーを訪れた際、このホテルに泊まったらしく、それを尋ねると、マネージャーは自慢げに水木氏のサインを見せてくれた。その後、タクシーで日本大使館に赴いたが、丁度昼休みで、二時に出直せと言われる。待ち時間の間、近くのカンドーヂ湖を散歩。恋人たちの憩いの場になっているらしく、仲睦まじく寄り添う恋人たちの姿が目についた。二時になると再び大使館に取って返したが、用事はあっさりと終わる。

1月19日(火)

一日中宿に引きこもって、戦略の練り直し。

1月20日(水)

I氏の事務所を訪れて結婚に必要な書類について相談。書類集めはI社関連のパスポート・ビザを一手に引き受けている弁護士に頼むことにしたが、それにしてもパスポート30~80ドル、独身証明書10~50ドル、IDカード10~50ドル、ファミリーリスト10~50ドルというあやふやな必要経費の金額はなんだ? と尋ねたら全部賄賂の額なのだという。ほへっ。その後、I社の社員というK氏が来訪し、同郷ということが知れ、若干話が弾む。かつてはヤンキー中学校として知られたO中学校で生徒会長をやっていたのだという。その後、仰天の事実が発覚。なんでもI社はI氏、K氏も含めて関係者全員がホモなのだという。「男の8%はホモだから、ホモだけで金を回せるんだよね。ホモは性格いいし」とI氏。最後、「君、××ちゃんに似てるねえ」というありがたい言葉をいただく。

1月?日

この前後に年配の日本人男性が二人ホテルにやって来た。一人はTさんという75歳の方で、旧帝大の工学部の学生だったのだが、大学在学中に文学・哲学に傾倒して文学部に転部し、大学卒業後はバックパッカーのようなことをしていて、やがて食うためにアジア進出を目論む日本企業の使い走りのようなことをやり始め、そうしているうちにコンサルタントとして一本立ちしたのだという。今回も某大手企業のマーケティング調査を担っての来緬で、ホテルのマネージャーとは昵懇の仲。英語、フランス語、ミャンマー語、さらにはミャンマーの少数民族の言葉に堪能で、ミャンマー歴も長く、知人には国会議員も大富豪もおり、私の不在中、ルビードラゴンと呼ばれる財閥の娘が彼に挨拶に来たそうだ。そんな大物なのに一泊10ドル前後のホテルに泊まるギャップがまた面白い。もう一人は福岡の日本語学校の50代の日本語教師Nさんで、営業の人間が病気になったので代わりにヤンゴンに派遣され、日本語学校を営業で回っているということだった。かつてはバンコクで10年日本語教師をやっていたそうで、奥さんはその時に出会ったシャン族の女性(ミャンマー国籍)で、今はタイ・マッサージの店をやっており、自分よりも稼ぎがいいのだとか。かつて結婚の手続きのためにヤンゴンに来た時は、奥さんの実家に泊まっているところに秘密警察に踏み込まれたりして(ミャンマーの法律では外国人はミャンマー人の家に泊まれない)、大変な思いをしたそうだ。二人は飛行機でたまたま席が隣になって意気投合し、一緒にこのホテルにやって来たらしく、爺殺しの悪名高い私はすぐに二人と仲良くなった。Tさんは早々に仕事でインレー湖へ出かけていった。

1月23日(土)

フライヤーによると、朝から授業をやっているということなので、朝の9時にマノーラマ僧院を訪れる。Basicクラスの授業が行われる一階の教室は生徒で溢れ返っており、強面の僧院長曰く300人以上の生徒がいるとのこと。ここでも授業の手伝いを申し出、横っちょで授業を見学していたが、出る幕はなかった。授業が終わると、僧院の近くでシングルマザーの日本人女性が経営しているジュエリーショップへ赴く。ここで(将来の)お客様に婚約指輪と結婚指輪を作ってもらう予定なのだ。クーラーのよく効いた部屋で色々説明を受ける。その後、僧院に戻って3時の授業に出て聴解を手伝う。

1月24日(日)

昨日に引き続いて3時の授業に出る。授業が終わった後、男の子一人と女の子一人がまとわりついてきて、お茶に誘われる。女の子は授業中にチラッと視界に入った時、「日本人みたいな顔をした可愛い子だな」と思った子だった。僧院近くの食堂に入って3人で甘ったるいコーヒーを飲みながら、歓談。女の子はEと名乗り、年齢を尋ねると、驚愕の17歳だった。大学生で、将来は通訳を目指しており、日本に留学したいのだという。基本、ミャンマー人は童顔で幼く見えるのだが、彼女の場合は23、24に見えた。髪型や服装のセンスもよく、恐らくは裕福な家の娘だろう。一人っ子ということだったが、我儘なところは一切なく、実にいい子だった。二人の写真を撮ったが、ついつい彼女に寄りすぎてしまい、男の子の顔が切れてしまった。後でNさんに彼女の写真を見せると、彼もかなり気に行ったらしく、「可愛いねえ」と言いながら、何度も写真を拡大していた。話は弾んだが、私が泊まっているホテルの話になった時、二人の表情が凍りついた。その時の衝撃は後日「What is the thing which surprises Japanese the second most in Myanmar?」というタイトルでFBにまとめた(削除済み)。とにかく二人は普段5時からのクラスに出ているらしく、「来週来てください」と頼まれた。行きますとも。

ミャンマーが紛れもなく階層社会であることを知った瞬間。というかミャンマーというよりも日本以外の国がだいたいそうで、韓国人なんかでも生まれ育ちが違いすぎるとお互いに口も利きません。この女性はその後日本語スピーチコンテストで2位に輝き、その褒美で日本を旅行していました。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(2)

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