第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(4)

旧ブログのエントリを加筆・修正したものです。青字は現在視点からの解説です。

第一回ミャンマー視察(2016年1~3月)(3)

2月14日(日)

早朝Tさんを送りだし、朝食を食べた後、ダマラキタへ。僧院の外で煙草を吸いながらN先生を待っていると、Mさんが車に乗って現れた。早速来てくれたのだ。N先生が来ると、「ゲストを連れてきました」と言ってMさんを紹介する。MさんがJICAの職員の奥様だと聞くと、N先生は大変驚いていた。早速Mさんに教壇に立ってもらう。授業が終わった後、「主人です」と言って、NNS先生はいかにも理系秀才風の男性を私とMさんに紹介した。旦那が医者という共通点があるということで、二人は話が弾んだようで、Mさんはできる限り僧院に来てくれると言ってくれた。Mさんが帰った後、私が「いい人連れてきたでしょ?」と言うと、N先生は「はい。先生(私のこと)のこと信用する。婚活やるんだったら、友だち紹介するよ」と言い、「それにしても」と話題を変えて、「先生が結婚していないことが大問題だよ」と喝破した。はい、仰せの通りです。ということで今週帰国する予定の私は、一旦ここでN先生と別れの挨拶。その後、マノーラマへ行って、僧院の前で坂本九の「上を向いて歩こう」が好きなお坊さんと話し込む。疲れがドッと出て、エリンクラスが始まってもいまいち集中できず、挨拶もそこそこに僧院を退散。

さすがJICAの奥様は献身的です。これぞ主婦力。

2月15日(月)

最後の気力を振り絞って帰国する前にI氏が言っていた人材派遣会社のM氏に会おうと思ってメールでアポを取る。

2月16日(火)

記憶も記録もなし。

2月17日(水)

M氏から返事が来て、明日会うことになる。

2月18日(木)

M氏の事務所へ。いつぞやにI氏の事務所で会ったK氏もいた。I氏はちょっと怖い感じの人で、開口一番、「お金が欲しいんでしょ?」とのたまった。が、それでも二人とも親切に色々教えてくれ、もう一度、ミャンマーでやる気になる。「真面目すぎる」「性格が良すぎる」というのがK氏の私評。M氏は私に興味ない感じだった。事務所を辞去した後、なんとなくそのままタクシーで帰る気が起きず、しばらく歩いて日陰で煙草を吹かす。なんだろう? この割り切れない気持ち。

M氏は畑違いの分野から実習生の派遣業に乗り出した人物です。見事なまでに頭の中は金、金、金だけ 😆 ミャンマーでは実業を営んでいる間の中ではこういう人物は嫌悪され、避けられていることも多く、私も性格が合いませんでした……が、やはり金儲けに長けているだけあって学ぶことも多く、彼との面談は糧になっております。もう私のことなど忘れているでしょうが、Mさんどうもありがとうございます。

2月19日(金)

N先生に電話して、帰国が伸びたので、明日僧院に伺うと連絡する。散髪に行く。

2月20日(土)

ダマラキタへ。僧院の前の雑貨屋で女の子の生徒と話していた時、傍にいた犬に右手の小指を咬まれる。みんな大丈夫、大丈夫言っていたけれど、狂犬病のことは頭にないようだ。帰国次第、病院に行かなければ。この日もNさんはやって来て、日本語教師の資格を持っている女友だちを連れてきた。彼女も授業を手伝ってくれるということで、ありがたいことだ。先週、大々的にサヨナラしてきたのでマノーラマに行く気は起きず、ダマラキタの授業が終わると速攻で宿に戻る。

結局、ワクチン打つの忘れていて今もしていません。まあ、もう大丈夫ですよね?先日、母国で犬にかまれて狂犬病を発症したフィリピン人の方が亡くなって背筋が寒くまりました。 😥

2月21日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、途中参加の4人を居残りさせて、あいうえおの練習をさせる。「つ」を上手く発音できず、「す」と言ってしまうのが、ミャンマー人の泣き所。

この四人のうちの一人の子が私になついていたのですが、この後、一度も顔を合わせていません。出来はあまり良くなかった……元気にしていればいいけど。

2月22日(月)

宿に泊まっている大阪出身の84歳の女性Fさんと親しくなる。84年から年に数回世界を一人旅しているらしく、北極から南極まで行ったことがあるのだという。その人生も波瀾万丈すぎて書ききれない……というか機関銃のようにのべつまなく話すのでほとんど頭に入らなかった。息子さんは京大を卒業して大阪大学の理系学部の教授をしているのだそうだ。昼、そのFさんと宿の近くの中華料理屋に行く。私の仕事の話をすると、「趣味やな」と一蹴される。ま、Fさん、学歴コンプレックスを自認するだけあって、権威主義だから……でもその後その何倍もの励ましの言葉をいただいた。

Fさんとは今でも年賀状のやりとりをしています。彼女は90歳近くになっても単身チベットに行ったり、サハラ砂漠に行ったりしています。すごいですね。

2月23日(火)

この日も昼はFさんと中華料理を食べにいく。帰りに宿の女の子にミニケーキを買って帰ろうと、Fさんが昨日行ったケーキ屋に行くことにしたが、これがなかなか見つからず、1時間近く炎天下のダウンタウンを歩く羽目になる。宿に帰った後、爆睡。夜、Fさんとカレーを食べにいったが、帰りはタクシーに乗った。深夜、恐らくカレーを食べた後に路上で買った天ぷらの油が当たって、ひとしきり吐く。

当時から胆石を患っていたんですね。町医者の超音波検査ではわからず、胃の病気だとずっと思っていた。日記には全然書いていませんでしたが、ミャンマーの料理は油が多いので、よく吐いていました。

2月24日(水)

早朝、ヘロヘロの身体で旅立つFさんを見送った後、寝込む。ちなみにFさんからは帰国後丁重な文面の葉書をいただいた。

2月25日(木)

I氏に帰国の挨拶に行く。そこでその後東京ダジャン祭り実行委員会で再会するNさんと邂逅。I氏にはかなり邪険に扱われた印象。そこの食堂で食べたチキン南蛮に当たって、再び嘔吐・下痢に襲われる。せっかく高い金を払って日本食を食べたというのに、なんてことだ。

I氏は好人物なのですが、女性嫌いの同性愛者なので私は疎んじられたようです 😆

2月26日(金)

一日中嘔吐と下痢に苦しむ。宿の前にある薬局で薬を買って飲むと、少し症状がよくなる。

2月27日(土)

なんとか体調が回復して、ダマラキタへ。僧院長に昼食をご馳走になる。写真にあるとおり、ミャンマー人は結構いいものを食べている。何が面白いのか、僧院長と一人の女の子が食事中の私の写真を撮っていた。この日はN先生は日本出張のためにお休み。M日本語学校のT氏が来ていて、生徒を勧誘していた。T氏は炎天下で写真をパシャパシャ撮っており、私が「日陰にいないと危ないですよ」と言っても、「湿気がないんで、僕は割と平気ですね」と笑っていたが、帰国後、体調を崩して寝込んでいたらしい。

2月28日(日)

ダマラキタへ。授業が終わった後、生徒たちが礼をしてくれた。その後皆で相乗りバスに乗って、日本・ミャンマー共同主催のフェスティバルへ行く。会場では様々な日本企業のブースや屋台が出ていた。私はたこ焼きを買って、生徒たちに配って回った。N先生はたこ焼き、餃子、焼売、焼き鳥などあらゆるものを食べていた。私も勧められたが、体調不良のため、やんわりと断る。会場には1時間ほど滞在し、先生や生徒たちとはここでお別れ。N先生からは「先生(私のこと)、またミャンマーに来てください」という言葉をいただいた。切ない気持ちでタクシーで宿に帰る。

2月29日(月)

午前中、60代の年金夫婦パッカーと8階のルーフで話し込む。60代といっても二人とも若々しく、旅に出て一年半になるそうだ。その後、スーレー・パヤ近くのビアホールで食事とビール。私の仕事の話をすると、奥さんが「ハーフは優性遺伝子の塊だということをアピールすればいいのよ」と言って、自分は鹿児島、旦那さんは沖縄出身で、そのせいか、二人とも学歴はないのに、五人の子供は大阪大卒、広島大卒、島根大卒、看護大卒、インドの大学に在学中と皆高学歴なのだと教えてくれた。果たして鹿児島と沖縄でハーフといえるのかどうか疑問だったが、一応、参考にさせていただくことにした。二人はそのまま旅立ち、ほろ酔い気分で宿に帰る。

3月1日(火)

12時にチェックアウトして、昨日バックパッカー夫婦と一緒に行ったビアホールで酢豚と黒ビールをいただく。何を考えて飲んでいたのか覚えていない。たぶん何も考えていなかったのだろう。ほろ酔い気分で宿に帰り、やがてタクシーがやって来て空港へ。このミャンマー滞在が一瞬の気の迷いなのか、一生の大事の始まりなのかは、この後の展開次第。

色々ありましたが、読み返して当時と気持ちがあまり変わっていないのを再確認。ある種の日本人男性にはミャンマー人女性は向きます。

第二回ミャンマー視察(2016年5~6月)(1)

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